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院史小事典

  1. 学習院の創立と名称について
  2. 学習院の桜花の徽章と制服について
  3. 背嚢(ランドセル)の使用について
  4. 女子部の制服について
  5. 学習院院歌の制定について
  6. 『教学聖訓』について
  7. 目白キャンパスの誕生について
  8. 「女子部」の呼称について
  9. 女子教養学園について
  10. 学習院游泳について
  11. 輔仁会の発足について
  12. 『輔仁会雑誌』について
  13. 四大学運動競技大会の発足について
  14. 学習院大学対甲南大学 運動競技総合定期戦(甲南戦)について
  15. 附属戦について
  16. おもちつき
  17. 学習院旧正門(戸山キャンパス)について
  18. 学習院現正門(目白キャンパス)について
  19. 初等科旧正堂について
  20. 中央教室(ピラミッド校舎)(目白キャンパス内)について
  21. 昭和寮について
  22. 清明寮について
  23. 乃木館(目白キャンパス内)について
  24. 北別館(目白キャンパス内)について
  25. 院長官舎について
  26. 「近光園」(四谷キャンパス)について
  27. 血洗いの池(目白キャンパス内)について
  28. 富士見台(目白キャンパス内)について
  29. 芭蕉の句碑(目白キャンパス内)について
  30. 青木義比の歌碑(目白キャンパス内)について
  31. 御榊壇(目白キャンパス内)について
  32. 出征の碑(目白キャンパス内)について
  33. 道しるべ(目白キャンパス内)について
  34. 鳩魂碑(目白キャンパス内)について
  35. 乃木号碑(目白キャンパス内)につい
  36. 高円宮憲仁親王記念碑(目白キャンパス内)について
  37. 「金剛石」「水は器」の御歌碑(戸山キャンパス内)について
  38. 時報を告げた鐘(戸山キャンパス内)について
  39. 華族女学校の遺蹟碑について
  40. 笠石(戸山キャンパス内)について
  41. 「学習院開校の地」の遺蹟碑について
  42. 「フェニックスの翼」像について

学習院の創立と名称について

弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、当初は学習所とも称したが、嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。

この名称が論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている。

明治元(1868)年3月、講義を閉じたのち改称や改編を経て明治3(1870)年7月、京都の旧学習院は終わりを告げた。

明治10(1877)年10月、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、次いで「学習院」の勅額が再び下賜された。ここに現在の学習院が創立された。

「学習院」の勅額

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学習院の桜花の徽章と制服について

桜花の徽章は本居宣長の「敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花」の歌の精神をとったもので、明治10(1877)年10月創立当初より使用。

明治12(1879)年、渡辺洪基次長の立案によって海軍士官型の男子の制服が定められた。

日本の学校で制服を定めたのは学習院が最初である。このときの帽子の徽章は花弁の丸味がやや大ぶりな桜花であったが、明治22(1889)年に改められ、更に平成3(1991)年、現在の桜章のように定められた。

学習院の桜花の徽章と制服 [写真]

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背嚢(ランドセル)の使用について

学習院で生徒・児童の通学の際に背嚢(ランドセル)を負わせるようになったのは、明治18(1885)年5月からで、学用品携行のために背嚢を採用したのは、日本では学習院が最初であった。

学校で背嚢の使用を定める以前から背嚢を負って通学していた学生もあったようで、学習院ではそうした生徒・児童の背嚢や陸軍の背嚢も参考にして定めたと言われている。

背嚢(ランドセル) [写真]

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女子部の制服について

女子の服装規定は、明治18(1885)年、華族女学校開業に先立ち「袴ヲ着シ靴ヲ穿クベシ、表衣 ハ随意トス、袴ハ縞ヲ除クノ外、色目、地紋随意タルベシ、結髪ハ随意タリ、西洋服ニテモ苦シカラズ」のような服装の心得を示しており、あまり厳密でなかったようである。

その後、明治20(1887)年に洋服着用に限ると定められたり、明治22(1889)年には式日以外和服着袴可となるなどの変遷の後、昭和12(1937)年の服装規定でほぼ現在の型のセーラー服が制服となった。

女子部の制服 [写真1]
女子部の制服 [写真2]

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学習院院歌の制定について

明治10(1877)年創立以来院歌をもたなかった学習院は、学習院の健全財政の展望が開けてきた昭和26年(1951)ごろ多方面から院歌制定の要望があり、第18代安倍能成院長は昭和26年(1951)年4月に、学問を好み真理を熱愛し、謙虚にして反省に富み、進んで社会に奉仕し、難に屈しない意力ある人物を養成したいとし、自ら作詞し学習院院歌を作った(作曲は信時 潔)。

昭和26(1951)年以前の学習院は明治天皇より賜わり、奥 好義作曲の「修学習業歌」が開院記念式等に歌われていた。また、華族女学校、女子学習院ともに校歌、院歌がなく明治20年(1887)年3月昭憲皇太后から下賜された御歌「金剛石」「水は器」と貞明皇后より大正12年(1923)年6月下賜された御歌「花すみれ」、昭和9(1934)年5月下賜された御歌「月の桂」が歌われていた。

学習院院歌 [写真]

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『教学聖訓』について

明治25(1892)年2月、第4代三浦梧樓院長は、明治4(1871)年以来華族あるいは学習院に賜わった勅語、令旨および国民一般に賜わった勅語、詔書のうち、教学に関するものを『教学聖訓』として編纂、上梓し、全教職員、学生に配布した。修身の教材としても使用した。

教学聖訓 [写真]

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目白キャンパスの誕生について

第7代近衛篤麿院長は、中等学科以上の校地として明治29(1896)年9月、北豊島郡高田村大字高田の現在地(目白)を選定し、工事が始まったのは明治39(1906)年7月で、明治41(1908)年8月に現在地に移転した(中等学科、高等学科)。平成20(2008)年8月で移転100年を迎えた。

目白キャンパス [写真]

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「女子部」の呼称について

財団法人学習院発足とともに新しい職制がしかれ、昭和22(1947)年3月31日付で「女子高等科、女子中等科の教育を統括する」女子部長に三谷隆信が任命され、それ以降女子高等科、女子中等科を総称して「女子部」とすることが慣行となった。

なお、昭和26(1951)年3月に女子部長は、廃止された。

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女子教養学園について

女子の一般教養を高める目的で、昭和23(1948)年に開設された。富永惣一がその主宰となり、諸教授が講義をするほかに、手芸・服飾その他の専門家を講師に招いた。各種学校であるこの教養学園は好評で、昭和27(1952)年に閉鎖されるまでに多くの修了生を出し、経済的に財団に寄与するところが大きかった。

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学習院游泳について

学習院の游泳は明治13(1880)年8月、隅田川の両国の中洲で行ったのが始まりである。明治25(1892)年からは神奈川県片瀬の海浜で行なわれるようになり、大正2(1913)年には前年新設の静岡県沼津游泳場で行なわれ、現在に及んでいる。

学習院游泳 [写真]

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輔仁会の発足について

学生の間には運動関係団体のほか多くの小団体があった。そのため第4代三浦梧樓院長は学生全体を包括する組織の設立を勧め、その結果全学生の中心機関として学習院輔仁会が創設された。輔仁会の活動は明治22(1889)年より始まり、会全体の行事として輔仁会大会や陸上運動会があった。

会の名は『論語』(顔淵篇)の「君子以文会友、以友輔仁」(君子は文をもって友を会し、友をもって仁をたすく)より選んだものである。

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『輔仁会雑誌』について

明治22(1889)年、輔仁会創立と同時に編纂部・演説部・英語部・仏語部・独語部・運動部の6部が設けられ、編纂部は翌23(1890)年6月、『輔仁会雑誌』を発刊した。当時、高等中学校の校友会雑誌は山口高等中学校(現在の山口大学経済学部の前身)の『学友』のみで、『輔仁会雑誌』は全国諸学校の校友会雑誌のうち最も古いものの一つとして、平成20(2008)年現在第231号を数えている。

輔仁会雑誌 [写真]

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四大学運動競技大会の発足について

学習院が新制大学の構想を模索し具体化していく段階で、7年制の旧制高等学校を持ちそれを新制大学に転換しようと苦慮している武蔵高等学校、成蹊学園、成城学園、学習院の4校が天野貞祐教授の発案で小規模の大学を設置し、学生の交流、教育・研究施設の相互利用など特色ある総合大学たるべき東京連合大学構想がもちあがった。

結局実現しなかったが、このことが機会となって四大学の親睦、交流等を目的とした運動競技大会の開催が決定され、昭和25(1950)年9 月から四大学運動競技大会が始まった。

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学習院大学対甲南大学 運動競技総合定期戦(甲南戦)について

昭和27(1952)年から陸上競技、野球など個々の定期戦は行なわれていた。

昭和31(1956)年になって両大学の総合定期戦が誕生し、現在まで続いている。

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附属戦について

本院輔仁会運動関係各部の中等科選手と、東京高等師範学校(現 筑波大学)附属中学校との定期戦は明治、大正以来の伝統的行事で、戦後初の附属戦は昭和21(1946)年秋に行なわれた。

昭和22(1947)年、23(1948)年の学制改革により、新制中等科と新制高等科に二分され、高等科は昭和26(1951)年から、中等科は28(1953)年から総合定期戦として学校行事に組み込まれた。

昭和27(1952)年からは女子高等科と附属高等学校女子との定期戦が始まり、昭和29(1954)年には、女子中等科と附属中等学校女子との定期戦も始まった。

昭和40(1965)年から高等科は男女合同の附属戦となる。

なお、中等科が昭和52(1977)年から、女子中等科が昭和53(1978)年から、事情により総合定期戦から各部ごとの対抗戦に改められた。

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おもちつき

幼稚園では昭和46(1971)年から毎年12月初旬に、日本相撲協会の力士を招き、園児とともに餅つきを行なうことが行事となった。

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学習院旧正門(戸山キャンパス)について

鋳鉄製の門は、はじめ明治10(1877)年に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。

製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初年の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財である。

神田錦町の学習院校舎が明治19(1886)年焼失したあと、この門はいつしか学習院の所有を離れたが、昭和5(1930)年、目白の本院構内にもどり、さらに昭和25(1950)年に、学習院女子短期大学(平成10年度から学習院女子大学)および学習院女子中高等科の正門として戸山に移された。その後明治通りの拡幅工事に伴い、この正門をセットバックするため、解体し、補修を経て平成19(2007)年12月に設置が完了し、現在に及んでいる。

重要文化財「学習院旧正門」として昭和48(1973)年6月2日文部大臣指定。

学習院旧正門(戸山キャンパス) [写真]

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学習院現正門(目白キャンパス)について

明治41(1908)年の目白移転の際につくられた。門標「学習院」の揮毫者は不明であるが、門標 「学習院大学」は昭和35年度の大学卒業生が寄贈したもので、第18代安倍能成院長が揮毫した。

学習院現正門(目白キャンパス) [写真]

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初等科旧正堂について

明治32(1899)年7月竣工、式典などに使用されたが、一時女学部の幼稚園舎としても使われた。昭和12(1937)年に初等科校舎の改築に伴い、千葉県印旛郡遠山村尋常高等小学校(現在成田市立遠山中学校)に移築され、同校の講堂となった。昭和48(1973)年6 月に国の重要文化財の指定を受け、現在は 千葉県印旛郡栄町の千葉県立房総のむらに保存されている。

初等科旧正堂 [写真]

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中央教室(ピラミッド校舎)(目白キャンパス内) について

昭和34(1959)年から始まった第二次学習院整備五か年計画(創立八十五周年記念事業)の一環として、昭和35(1960)年8月、北1号館・南2号館とともに竣工。学習院のシンボルとして話題を呼んだ。学習院新聞社(のちの学習院大学新聞社)では百号を記念して中央教室のニックネームを募集し、「ピラミッド教室」を採用した。同校舎の場所に中央教育研究棟を建築することになったため、平成20(2008)年に解体された。

中央教室(ピラミッド校舎) [写真]

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昭和寮について

旧昭和寮は、昭和3(1928)年に旧制高等科学生の寄宿舎として、現在の新宿区下落合2丁目13 番28号の敷地に建設された。西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27(1952)年に売却。同年、同じく下落合2丁目に大学学生のための寮を設け、それ以前の寮の名称をとり「昭和寮」とした。

以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み学生に親しまれてきたが、平成9(1997)年3月ついにその幕を閉じた。

旧昭和寮 [写真]

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清明寮について

昭和24(1949)年4月に中等科が小金井から戸山に移ったため、中等科の旧光雲寮を高等科生徒が使用することになり、この寮は安倍院長によって改めて「清明寮」と名づけられた。

昭和26(1951)年4月、目白校地に皇太子明仁親王のための新寮が完成したのに先立ち、小金井の「清明寮」は閉鎖され、この皇太子寮にその名称が引き継がれた。皇太子御退寮後は義宮(常陸宮)正仁親王が、大学を卒業される昭和33(1958)年3月まで在寮された。

同年4月以降は中等科長室や職員室、事務室などに使用し、52(1977)年夏、中等科・高等科本館新築のため取り壊された。

旧清明寮[写真]

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乃木館(目白キャンパス内)について

明治41(1908)年に目白移転を機に6棟の寄宿舎が建てられ、開寮と同時に第10代乃木希典院長は総寮部内の一室に起臥し、学生と寝食を共にしてその薫陶にあたった。同院長の逝去後、院長の居室であった総寮部を「乃木館」として保存し、昭和19(1944)年ごろ現在の場所に移築した。

乃木館(目白キャンパス内) [写真]

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北別館(目白キャンパス内)について

明治42(1909)年に図書館として建てられた建物の一部であり、現在は大学史料館として使用している。

北別館(目白キャンパス内) [写真]

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院長官舎について

明治42(1909)年に作られ、第10代乃木希典院長時代には皇族寮に転用された。二階には会議室があり、職員会議や学生の集会にも使われた。昭和38(1963)年幼稚園建設の敷地を得るため愛知県犬山市の明治村に移された。

旧院長官舎[写真]

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「近光園」(四谷キャンパス)について

初等科では、戦前から南の崖下にあった作業園、近光苑に加えて校地南端の弓場跡に学級園や相撲場を設け、児童の自然観察や遊戯の場としていた。

昭和34(1959)年に作業園、近光苑は売却され、さらに昭和36(1961)年、校地南端は高速道路用地になったため、高速道路に屋根をのせ盛り土した約1600m²の土地を新たに「近光園」と命名し、昭和40(1965)、41(1966)年に整備して自然観察、遊戯の場ができた。

「近光園」(四谷キャンパス) [写真]

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血洗いの池(目白キャンパス内)について

湧水でできた池で、昔は灌漑に用いられ、水門があった。学習院の構内になってから、堀部安兵衛が血刀を洗ったという伝説ができ、「血洗いの池」と呼ばれるようになった。

血洗いの池(目白キャンパス内) [写真]

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富士見台(目白キャンパス内)について

西1号館の南、江戸時代には「富士見台」と呼ばれ、眺望の最もすぐれた場所の一つで、富士見茶屋があった。茶屋は珍々亭ともいい、その主人の与八は、俳名を玉川清風といった。多くの風流人がおとずれて四季とりどりの風景を賞讃した。

富士見台 [写真]

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芭蕉の句碑(目白キャンパス内)について

富士見台にあり、文化7(1810)年に雑司ケ谷の俳人金子直徳が建てたもので、「目にかゝる時や殊更五月富士」の句が刻んである。

芭蕉の句碑(目白キャンパス内) [写真]

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青木義比の歌碑(目白キャンパス内)について

青木備後守義比は幕末の旗本。義比の死後、かれが好んで逍遥した富士見台に歌碑が建てられた。碑には、「夏月涼」「山家夏」の二首が刻まれている。

青木義比の歌碑(目白キャンパス内) [写真]

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御榊壇(目白キャンパス内)について

明治42(1909)年、明治天皇が目白の新校舎に行幸になったのを永く記念するため、第10代乃木希典院長が翌年3月、周囲に石を巡らして築いた前方後円風の壇で、円壇の中央に天覧の榊が植えられた。円壇を囲む石の一部は、乃木院長が当時の日本の国境から集めたものである。

御榊壇 [写真]

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出征の碑(目白キャンパス内)について

昭和19(1944)年度高等科文科の卒業生が残したもので、死んで「目白ケ丘の桜と咲かむ」という出陣学徒の合言葉を第17代山梨勝之進院長の筆蹟により刻んである。

出征の碑 [写真]

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道しるべ(目白キャンパス内)について

雑司ケ谷から落合・堀の内方面へ通じる道があった。大学図書館東南の道路際に「是より左ぞうしがや/右ほりの内」、また旧位置から若干動かされたものの中等科・高等科本館前植え込みのなかに「右ぞうしがや/左ほりの内」の道標がある。

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鳩魂碑(目白キャンパス内)について

昭和13(1938)年、伝書鳩部員によって建てられたもの。伝書鳩部は昭和6(1931)年、陸軍からフランス製の大型移動鳩舎と約20羽の鳩が贈られたのを機に、伝書鳩研究会として発足した。昭和11(1936)年末、伝書鳩部と改称し、昭和16(1941)年9月に結成された学習院報国隊には鳩隊として参加。しかし昭和20(1945)年4月13日の空襲で鳩舎は焼失した。

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乃木号碑(目白キャンパス内)について

乃木号は、旅順開城のとき、露将ステッセルが水師営会見記念のため乃木大将に贈られたアラビヤ産の名馬寿号を父に持ち、明治44(1911)年鳥取県の佐伯友文氏の牧場で生まれた。兄弟中で最も寿号に似ているところから、佐伯氏が乃木院長に寄付し、本院で飼養された。昭和12(1937)年27歳で天寿を全うするまで、永い一生を本院馬術のために捧げた功を称えて同年桜友会有志により、馬場の片隅に「乃木号碑」が建てられた。

乃木号碑 [写真]

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高円宮憲仁親王記念碑(目白キャンパス内)について

平成14(2002)年、スカッシュの最中に47歳の若さで亡くなられた同親王を偲んで、平成15(2003)年11月、輔仁会桜杖会・ホッケー部が建立したもの。親王はスポーツ好きで知られ、日本サッカー協会、日本ホッケー協会など数多くの競技団体の名誉総裁を務められた。碑の文字は犬養康彦氏による。

高円宮憲仁親王記念碑 [写真]

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「金剛石」「水は器」の御歌碑(戸山キャンパス内)について

昭和10(1935)年に華族女学校開校50周年の記念事業の一つとして、昭憲皇太后が明治20(1887)年に華族女学校に下賜された「金剛石」「水は器」の御歌を刻んだ碑が青山の女子学習院に建設された。

青山の焼け跡から戸山に移されたのは昭和22(1947)年5月である。

「金剛石」「水は器」の御歌碑(戸山キャンパス内) [写真]

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時報を告げた鐘(戸山キャンパス内)について

1947(昭和22)年、宮内省から女子学習院に寄贈された鐘が、1952(昭和27)年まで現在の図書館前植え込みの一隅に建てられた鐘楼に提げられ、戸山キャンパスの授業の開始・終了を告げていた。その後使用されなくなってもそのまま置かれていたが、1982(昭和57)年、図書館の新築にともない鐘楼は解体され、鐘は女子中・高等科内に保存された。 さらにその後、2008(平成20)年10月20日から2009(平成21)年1月25日まで、本院卒業生・アーティストのオノ・ヨーコ氏による『BELL OF PEACE 平和の鐘』展において使用され、現在再び図書館前の植え込みに設置されている。

時報を告げた鐘 [写真]

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華族女学校の遺蹟碑について

華族女学校のあった永田町に昭和18(1943)年に建てられた碑で、現在は参議院議長公邸の通用門前にある。

華族女学校の遺蹟碑 [写真]

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笠石(戸山キャンパス内)について

華族女学校が永田町にあったころ、門柱に乗せられた笠石で、女子学習院の青山移転にともない、その門柱に移された。戦後、旧校地(現秩父宮ラグビー場)に放置されたままになっていたが、1974(昭和49)年に至り戸山に移され、復元されて、現在は図書館前の木陰に置かれている。

笠石(戸山キャンパス内) [写真]

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「学習院開校の地」の遺蹟碑について

学習院は明治10(1877)年、神田錦町に華族学校として創設されてから、平成14(2002)10月に125年を迎えた。

この125周年を記念して、3つの記念事業が行われ、(1)創立125周年記念式典、(2)125周年記念史の刊行、そして(3)学習院開校の地(神田錦町)に「遺蹟碑」が建立された。

遺蹟碑の表面はシンプルに「学習院(華族学校)開校の地」のみで、裏面には学習院の歴史が刻まれている。

「学習院開校の地」の遺蹟碑 [写真]

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「フェニックスの翼」像について

学習院創立125周年を記念して、平成16(2004)年3月26日に西5号館1階エントランスホールに設置されたもので、製作者は彫刻家で東京芸術大学名誉教授・澄川喜一氏。

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お問い合わせ先
学校法人 学習院 総合企画部 広報課
〒171-8588 東京都豊島区目白1-5-1 電話 03(3986)0221(代) 内線2290
平日8:40〜16:45(昼休み11:30〜12:30) 土曜8:40〜12:30

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