
弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、当初は学習所とも称したが、嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。 この名称が論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている。 明治元(1868)年3月、講義を閉じたのち改称や改編を経て明治3(1870)年7月、京都の旧学習院は終わりを告げた。 明治10(1877)年10月、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、次いで「学習院」の勅額が再び下賜された。ここに現在の学習院が創立された。 |
明治10(1877)年創立以来院歌をもたなかった学習院は、学習院の健全財政の展望が開けてきた昭和26年(1951)ごろ多方面から院歌制定の要望があり、第18代安倍能成院長は昭和26年(1951)年4月に、学問を好み真理を熱愛し、謙虚にして反省に富み、進んで社会に奉仕し、難に屈しない意力ある人物を養成したいとし、自ら作詞し学習院院歌を作った(作曲は信時 潔)。
昭和26(1951)年以前の学習院は明治天皇より賜わり、奥 好義作曲の「修学習業歌」が開院記念式等に歌われていた。また、華族女学校、女子学習院ともに校歌、院歌がなく明治20年(1887)年3月昭憲皇太后から下賜された御歌「金剛石」「水は器」と貞明皇后より大正12年(1923)年6月下賜された御歌「花すみれ」、昭和9(1934)年5月下賜された御歌「月の桂」が歌われていた。
![学習院院歌 [写真]](img/index_glaphic_005.gif)
本院輔仁会運動関係各部の中等科選手と、東京高等師範学校(現 筑波大学)附属中学校との定期戦は明治、大正以来の伝統的行事で、戦後初の附属戦は昭和21(1946)年秋に行なわれた。
昭和22(1947)年、23(1948)年の学制改革により、新制中等科と新制高等科に二分され、高等科は昭和26(1951)年から、中等科は28(1953)年から総合定期戦として学校行事に組み込まれた。
昭和27(1952)年からは女子高等科と附属高等学校女子との定期戦が始まり、昭和29(1954)年には、女子中等科と附属中等学校女子との定期戦も始まった。
昭和40(1965)年から高等科は男女合同の附属戦となる。
なお、中等科が昭和52(1977)年から、女子中等科が昭和53(1978)年から、事情により総合定期戦から各部ごとの対抗戦に改められた。
鋳鉄製の門は、はじめ明治10(1877)年に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初年の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財である。 神田錦町の学習院校舎が明治19(1886)年焼失したあと、この門はいつしか学習院の所有を離れたが、昭和5(1930)年、目白の本院構内にもどり、さらに昭和25(1950)年に、学習院女子短期大学(平成10年度から学習院女子大学)および学習院女子中高等科の正門として戸山に移された。その後明治通りの拡幅工事に伴い、この正門をセットバックするため、解体し、補修を経て平成19(2007)年12月に設置が完了し、現在に及んでいる。 重要文化財「学習院旧正門」として昭和48(1973)年6月2日文部大臣指定。 |
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