1 吉田茂[1957-58,中公文庫版1998]『回想十年』2,p182-209。

 

2 この要請は,1952年の日米安全保障条約前文の「日本は直接および間接的な侵略に対する防衛のため,日本自身が漸増的にその責任を負うべきことを期待する」という記述に基づいたものであった。

 

3 『朝日新聞』[1953年6月21日]。

 

4 『朝日新聞』[1953年6月27日,7月1日]。

 

5 アメリカの戦略等のより詳細な背景,憲法との関係の問題などを含め,交渉の全体の流れについては,前掲,植村秀樹[1995],宮沢喜一[1956,中公文庫版1999]。

 

6 「新木大使・岡崎大臣あて電信」第573号[1953年5月28日発,5月29日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムA'-0137)。

 

7 上記資料でMSAとは,MSAを統括し,かつ経済援助の執行を担当する相互安全保障本部を表す。

 

8 「日米相互防衛援助協定交渉経過録」立命館大学法学部編『立命館法学』[1954年2月]p45-46。

 

9 前掲,防衛庁監修・防衛年鑑刊行会[1955]『防衛年鑑 1955』p64-67。

 

10 「岡崎大臣・新木大使あて電信」第7479号[1953年8月3日発](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

11 「新木大使・岡崎大臣あて電信」第894号[1953年8月6日発,8月7日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

12 「新木大使・岡崎大臣あて電信」第893号[1953年8月6日発,8月8日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

13 経団連事務局「MSAの折衝経過と域外調達の方向」『経団連月報』[1953年10月]。

 

14 前掲,防衛庁監修・防衛年鑑刊行会[1955]『防衛年鑑 1955』p67-69,「日米相互防衛援助協定交渉経過録」立命館大学法学部編『立命館法学』[1954年2月]p51-54。

 

15 重光は,当時,改進党党首であった。『朝日新聞』[1953年9月27日]夕刊,前掲,宮沢喜一[1956,中公文庫版1999]p178-200。

 

16 「新木大使・岡崎大臣あて電信」第1047号[1953年9月2日発,9月3日着],第1053号[1953年9月2日発,9月3日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

17 「岡崎大臣・新木大使あて電信」第894号[1953年9月11日](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

18 「新木大使・岡崎大臣あて電信」第1141号[1953年9月16日発,9月17日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

19 「岡崎大臣・新木大使あて電信」第896号[1953年9月12日](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

20 『朝日新聞』[1953年9月17日]。

 

21 「岡崎大臣・新木大使あて電信」第922号[1953年9月19日](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

22 外務省経済局「総理報告・MSA550条による米国小麦を差当り二十万屯とせる理由について」[1953年9月29日](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

23 その後,9月末の台風によって予想収穫量はさらに低下することとなる。

 

24 池田一行に対する米側の期待は大きかった。直前に吉田―重光合意がなされていたため,日本が積極的に防衛力増強に取り組む姿勢を示すものと思われたのである。しかし,これに対する「池田私案」は,米側にとっては大いに期待はずれであった~前掲,植村秀樹[1995]p168-187。

 

25 池田・ロバートソン会談「第二回会談記録」[1953年10月8日]~大嶽秀夫編[1993]『戦後日本防衛問題資料集』第三巻(三一書房)p374-375。

 

26 以下,「新木大使・岡崎大臣あて電信」第1294号[1953年10月16日発,10月16日着](外交資料館所蔵マイクロフィルムA'-0137)。

 

27 「ワシントン電第1294号に関し」[日付なし](外交資料館所蔵マイクロフィルムA'-0137)。

 

28 前掲,宮沢喜一[1956,中公文庫版1999]p240。

 

29 「10月19日付池田特使覚書」,「10月21日付け合衆国覚書」~大嶽秀夫編[1993]『戦後日本防衛問題資料集』第三巻(三一書房)p388-393。

 

30 「二一日付米側覚書に関する質疑応答」[1953年10月23日]~大嶽秀夫編[1993]『戦後日本防衛問題資料集』第三巻(三一書房)p393-400。

 

31 「共同声明」[1953年10月30日]~~大嶽秀夫編[1993]『戦後日本防衛問題資料集』第三巻(三一書房)p400-401。

 

32 『朝日新聞』[1953年10月3日]。

 

33 『日本経済新聞』[1953年10月14日]。

 

34 外務省経済局「MSA550条に基く余剰農産物の買付に関する問題点」[1953年10月24日](外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

35 日本の外務省も,アルゼンチンの安値での小麦売却オファーがあったことを米側に示唆するなど,種々の手段で価格引き下げを画した(外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016)。

 

36 外務省経済局[1953年12月10日]「MSA550条による小麦輸入の件」(外交資料館所蔵マイクロフィルムE'-0016),『毎日新聞』1953年12月11日」。

 

37 『朝日新聞』[1954年1月22日]。

 

38 その際,日米間において,日本の防衛力増強計画に関する合意は成立しなかった。日本側は,さしあたり,MSA受け入れにあたって,保安隊の自衛隊への改組と防衛力漸増を実施することとなる。

 

39 MSA援助が,日本の航空機工業の復興に貢献したとの指摘がされている~柴田茂紀[2001]「朝鮮戦争後のアメリカの対外援助(MSA)と日本の航空機工業」『社会経済史学』第67巻2号。

 

40 『エコノミスト別冊 MSA発動・一兆円予算 難局に立つ日本経済』[1954年4月]p12。

 

41 石井晋[1998]「1950年代前半の財政金融政策―戦後日本の国家と経済」学習院大学『経済論集』35巻1号。

 

42 都留重人[1953]「MSAと日本」『世界』[1953年8月]p26。

 

43 「MSAを受けたら日本経済はどうなる―有澤広巳・木村禮八郎」『世界』[1953年10月]p110。

 

44 政府のMSA交渉に臨んだ際の甘い見通しに関しては,小野義彦[1953]「時評・MSA交渉と日本の矛盾」『歴史学研究』第166号においても指摘されている。

 

45 宇佐見誠次郎[1953]「MSA援助は耐乏生活を要求する」『中央公論』[1953年11月]p107-110。

 

46 前述のように,引き締め政策は,MSA受け入れのために行われたというよりも,MSA援助が僅少であることが判明したために強化されたものと考えられる。

 

47 『エコノミスト別冊 MSA発動・一兆円予算 難局に立つ日本経済』[1954年4月]p12。

 

48 労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和28年』(労務行政研究所)p368-372。

 

49 前掲,労働省編[1955]p370-385。

 

50 前掲,労働省編[1955]p385。

 

51 前掲,労働省編[1955]p569-588。

 

52 前掲,労働省編[1955]p398-402。

 

53 高野実[1953]「民族闘争の舞台」『中央公論』[1953年11月]p225。

 

54 労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』(労務行政研究所)p778-780。

 

55 「定期昇給制度に対する一考察」『経営者』[1954年9月]。

 

56 前掲,労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』(労務行政研究所)p284-297。

 

57 塩田庄兵衛[1978]「労働組合と国民闘争―総評高野時代に経験から―」労働運動史研究会編『高野時代の労働運動』(労働旬報社)。

 

58 前掲,労働運動史編纂委員会編[1975]『総評労働運動の歩み』p50-53,労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』(労務行政研究所)p349-424。

 

59 前掲,労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』(労務行政研究所)p834-839。

 

60 平和経済国民会議の運動は,その後,社会保障委員会のみが活発な活動を展開したが,全体として低調化した。1954年には,第二回会議の開催が企図されながら,ついに開催されずに終わったのである~労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』(労務行政研究所)p260-261。

 

61 全繊などが総評から脱退し,1954年4月22日,総同盟,全繊,海員組合などによって全労会議が結成される。

 

62 五単産共闘会議[1954年12月27日]~~労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p21。

 

63 春季賃上共闘中央総決起大会「共同闘争宣言」[1955年1月28日]~労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p22-23。

 

64 日本電気産業労働組合中央本部「今後の賃金斗争の組織化方針」日本労働組合総評議会『総評・調査時報』No.15[1954年9月]。

 

65 「第一回賃金闘争討論集会議事要約」『総評・調査時報』No.19[1955年3月]。

 

66 合化労連「賃上闘争方針」[1955年1月29-31日・第9回臨時大会]~労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p94-98。

 

67 労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』p176-177。

 

68 労働省編[1955]『資料・労働運動史 昭和29年』p203-208。

 

69 労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p111-116。

 

70 私鉄~(1)要求額―基準賃金の10%以上アップ,(2)妥結額―昇給800円(現行の4.75%増)。炭労~(1)手取3000円増,(2)220円(現行の1.7%)増,一時金650円。合化~(1)硫安・過石部門一律1500円+αアップ,石窒・カーボン・ソーダ部門一律750円+αアップ,(2)昇給を含め1000-2000円(現行の6-10%)。紙パ~(1)基準内賃金の10%+αアップ,(2)1000円前後(現行の4-7%増)。電機労連~(1)昇給を含め一律300円以上+αアップ,(2)昇給400円前後(現行の2-3%)。全鉱~(1)一律1000円+αアップ,(2)昇給300-420円,一時金500-1000円(現行の2.7-3.8%増)。電産~(1)全国平均2910円(17.3%アップ),(2)昇給5.4%-5.9%。以上,労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p33。

 

71 春季賃上共闘会議「春季賃上共闘に関する自己批判」[1955年5月18日]~労働省編[1957]『資料・労働運動史 昭和30年』p32-33。

 

72 総評調査部編[1956]『賃上げの理論的根拠』(一橋書房)p220-222。

 

73 「1963年賃金白書―ヨーロッパなみの賃金獲得のために―」『総評三十年・資料集 上』p617-621。

 

74 春闘の効果に関しては,小池和男[1962]『日本の賃金交渉』(東京大学出版会),隅谷三喜男[1965]「序論」大河内一男編『産業別賃金決定の機構』(日本労働協会)など。

 

75 ただし,総評は,必ずしも職場レベルで「生産性運動」反対に積極的に取り組んだわけではない~『総評四十年史』編集委員会編[1993]『総評四十年史』第一巻(第一書林)p250-261。

 

76 『総評四十年史』編集委員会編[1993]『総評四十年史』第一巻(第一書林)p250-261。

 

77 池田・ロバートソン会談等で,日本側は,再軍備に対する反対運動が強く,政治的・社会的に困難であることを盛んに主張した。

 

78 石井晋[1995]「高度経済成長前夜の輸出振興政策―鉄工業を中心として」『社会経済史学』第61巻3号,石井晋[1997]「重点的産業振興と市場経済―戦後復興期の海運と造船」『社会経済史学』第63巻1号。

 

79 19世紀末以降に関するマクロ的な視野の経済史・経営史研究で,組織の役割や経営的資本主義を強調したものとして,Alfred D. Chandler Jr. [1977] "The Visible Hand: The Managerial Revolution in American Business" Harvard University Press, Alfred D. Chandler Jr. [1990] "Scale and Scope: The Dynamics of Industrial Capitalism" Harvard University Press, William Lazonick [1990] 'Organizational Capabilities in American Industry: The Rice and Decline of Managerial Capitalism', Business and Economic History Vol.19, William Lazonick [1990] "Competitive Advantage on the Shop Floor" Harvard University Press.