『日本の学生野球の今昔』

 

2003122日,学習院大学経済学部講演要旨)

 

日本高等学校野球連盟会長

脇村 春夫

 

 

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はじめに

 

1】学生野球の範囲

今日,お話する学生野球の範囲は戦前は中等学校野球・旧制高等学校専門学校野球・大学野球,戦後は高等学校野球・大学野球ですが,中心は戦前の中等学校野球と戦後の高等学校野球です。しかし,若干大学野球の戦前,戦後の変化にも触れます。またここ,学習院のキャンパスは東京都内ですから東京都の高校(中等)野球と学習院の野球にも言及いたします。

戦前と戦後の教育制度の違いは以下のとおりです。

 

 

学習院の戦前は中学校・高校の7年制一貫コースでした。

 

2】日本の野球の発展の流れ

日本の野球全体の明治から今日迄の流れをチャート1で示しました。一番最初に始まったのが一高の前身である第一番中学校で明治5年に米人教師のHorace Willson(昨年野球殿堂入り)でした。そこから明治末から大正にかけて高等専門学校,六大学,中等学校に普及して行く姿がお分かりでしょう。日本ではアメリカとは異なり高校,大学,中学校のエリート層から一般46頁】庶民層に広がって行くのが特徴です。

 

 

第一章 高校(中等)野球の今昔

 

1】高校(中等)野球の昭和10年と平成14年の比較

1をご覧下さい。昭和10年頃は戦前における学生野球が最も盛んな時期と言われていますが,それでも参加校数は665校と野球部普及率は39%です。現在(平成14年)は4,219校,普及率75%と遙かに野球の裾野が広がっています。

昔も今も変わらないのが野球を教育の一環,人格の形成の場とする精神野球で,この精神野球は現在の高校野球指導者の野球教育のバックボーンになっています。明治時代の一高から始まった精神野球が,そのご早稲田の初代監督の飛田穂洲によって各地に広められ,それが現在まで継承されていることで高校野球は発展してきたとも言えましょう。

 

 

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2】戦後における甲子園出場校,優勝校,優勝県,学校の種別の変化

①昭和24年と現在の参加校数,甲子園出場校数,ベンチ入選手数を比較しますと,昭和24年はそれぞれ1,365校,23校,14名に対して平成15年は,4,223校,49校,18名と大きく増加しています。

②春・夏の甲子園全国大会の優勝校は昭和20年代は圧倒的に公立校が多かったのが平成年代では殆どが私立校に変わりました(表2参照)。私立校の甲子園出場率が最近では約70%48頁】公立校よりも遙かに多いわけですからこれは当然の結果と言わねばなりません。公立校の中でも商業学校,工業学校の出場機会が減少しているには,日本の産業構造の変化と無関係ではありません。

③戦前と戦後の優勝県の変化を見ますと戦前は愛知(優勝回数10回),兵庫(6),広島(6),和歌山(5),岐阜(4)の4県に集中して東低西高の傾向だったのが,戦後は岐阜以外の上記3県以外に愛媛(6),大阪(16),東京(9)の戦前の優勝経験県と戦後に初めて優勝した神奈川(10),徳島(6),高知(5)以下の多数の県に分散されてきたのが大きな違いです。

 

 

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3】東京都の高校(中等)野球の今昔

明治20年代の一高の野球に刺激されて,明治30年代には郁文館中,正則中,青山学院,明治学院,独逸協会,慶應普通部,高等師範付属中,学習院等が野球を始めます。明治の末,一高の力が衰え始めた頃には郁文館中が一高との練習試合に勝利をおさめています。

戦前の大正,昭和期での春夏甲子園出場校は早稲田実業,慶應普通部,慶應商工,日大三高の大学系列のみでした。しかも,その中で全国優勝したのは慶應普通部1回(夏,第2回大会,大正5年)のみで,東京勢は弱かったのです。

戦後における東京の初優勝は春は昭和32年の早稲田実業,このとき王投手が活躍します。夏は昭和51年の桜美林です。その後は春は日大三(昭和46年),日大桜ヶ丘(47年),岩倉(59年),帝京(平成4年)。夏は帝京(平成元年,7年),日大三(平成13年)と東京勢が頑張ります。

東京都の参加校数は昭和10年の47校から昭和30年には130校となり,更に平成15年には,50頁】その倍の263校と膨れ上がります。昭和49年夏からは東西にわかれて地区予選を行い,夏の甲子園出場校は2チームとなりました。

公立校の甲子園出場は夏のみで,いままで4回です。即ち高等師範付属中(昭和21年),国立(55年),城東(平成11年),雪ヶ谷(15年)です。しかし,戦績は芳しくなく,付属中が準々決勝で浪商(平古場投手)に敗退した以外は,すべて1回戦で敗れています。

最近の東京勢は元気がありません。甲子園での初戦敗退が続いています。春の選抜には今までは2校が選ばれていましたが,今年の春は1校に削られてしまいました。今秋の神宮大会では代表校の二松学舎が2回戦で大敗しています。

 

4】学習院の野球の戦前,戦後の展開

明治22年に野球部(中等科,高等科)が同好会として創部されました。明治26年には正則中学,明治29には高等師範学校付属中学と試合をしています。

付属中学とは大正3年より定期戦となり,現在迄続く両校としても重要行事の一つです。夏の大会の東京予選は昭和6年より参加しています。早くから野球を始めたのに何故,予選参加がかくも遅かったのか不思議でなりません。学校当局側が野球に熱心でなかったからかも知れません。乃木院長の野球嫌いは有名な話で,明治44年に新聞を賑わした野球害毒論に賛成しているほどです。

戦績の方はどうだったでしょうか。戦前の中等科は夏の東京都の予選では3回戦まで勝ち進んでいました。戦後の高等科の方も3回戦までと健闘していましたが,最近は2回戦どまりです。何故弱くなったのでしょうか。その原因は

①勉強優先のため,十分な練習が出来ない,部員数も少ない。

②他の私立校のごとく推薦入学制度はない。従って中学校の優秀な野球選手の勧誘が出来ない。

③中等科の野球部選手がそのまま高等科の野球部に入らず,他校に移る。

④専任監督ではない。監督は自分の仕事の片手間,毎日の練習にはこられない。

などが考えられます。

 

第二章 大学野球の今昔

 

1】戦前の旧制大学野球

明治期には一高の野球に刺激されて慶應(明治26年),早稲田(明治34年)に野球部が誕生します。早稲田が最初に試合をしたのが学習院(高等部)でした。明治36年から開始された早慶戦は人気がありました。それが遂には両校による応援団の乱闘事件にまで発展して,明治39年には中止になります。早慶戦が再開されたのは,なんと20年後の大正14年でした。いかに因縁の対抗戦であったかがわかります。

戦前の大学の野球のリーグ戦は東京6大学リーグ,東都大学リーグ,関西6大学リーグ(現在の名称は関西学生野球リーグ)の3リーグしかありませんでした。東京6大学リーグは大正15年から新装なった神宮球場で開始,参加校は慶應,早稲田,明治,法政,立教,東大)。東都大学リーグは昭和6年にスタート,専修,中央,日本,國學院,東京農大の5校です。関西6大学リーグは,同じく昭和6年に開始され参加校は立命,関西,関学,京都,神戸商大(現51頁】在の神戸大),同志社でした。東都,関西の両リーグの参加校の中では現在では全く姿を消している東京農大と神戸商大が入っているのを見逃すわけには行きません。

旧制7帝国大学(北海道,東北,東京,九州,京城,台北,大阪)の全国大会はありませんでした。4帝大(東北,東京,京都,九州)野球優勝大会が昭和3年に1回,甲子園で開催されている程度です。その代わり東大対京大,九大対京城大の定期戦がありました。

 

2】戦後の新制大学の野球

戦後は新教育制度のより大学の数が一気に増加します。それは戦前の官立の帝国大学,私立大学のほかに戦前の旧制高校,専門学校(高等商業,高等工業,高等農林,薬学,医学)及び師範学校が大学に昇格したことと,新設の私立の大学が新たに誕生したことによるものです。かくして戦前は大学は大都市にしかありませんでしたが,戦後は地方の主要都市に生まれたのです。

戦前は旧制高校と専門学校でも野球が盛んで全国大会が開催されていたくらいですから,それらを受け継いだ戦後の新制大学でも野球部が誕生します。学習院大学の野球もしかりです。ちなみに戦前と現在を比較しますと,戦前の大学野球の連盟数は上記で述べたように3連盟,加盟校は17校でしたが,それが現在では26連盟,加盟校数358校にまで膨れ上がっています。

戦前と戦後の大きな違いは,一つは東京6大学,旧関西6大学は戦前と同様入替戦はありませんが,東都は入替戦がある点です。東大と京都はこの為安泰ですが,学習院は入替戦がある為に一部から脱落してしまいました。二つ目は地方の大学の力が向上した結果,大学選手権大会,神宮大会で東京6大学チームが優勝出来なくなりました。その理由は高校野球の優秀な選手が東京6大学に行かずに,地方の大学でプレーするようになったからです。東京6大学野球に昔ほどの魅力がなくなってしまったのです。それは何故でしょうか。

 

3】東京6大学野球の人気低落の原因

それは以下五つの原因が考えられます。

①校舎の郊外移転により,神宮に応援に行くのにも時間がかかるようになった。

②学校当局が野球の応援だけを特別扱いにして,応援に行く学生を支援することをやめてしまった。

③試合自体が面白くなくなった。

④スター選手の不在。高校野球のスター選手がプロに行ってしまう。

⑤その結果,若い女性ファンが神宮に来なくなった。

 

第三章 学習院の大学(旧制高等部)野球の今昔

 

1】戦前の旧制高等部の野球

学習院は明治期は一高との定期戦或いは早稲田との練習試合を行うなど野球は盛んでした。大正・昭和期では全国高等専門学校野球大会でも活躍します。大正13年から始まった全国高等専門学校野球大会は昭和10年からは高等学校と専門学校とが別々に開催されるようになり,高等学校の方はインターハイの名称で昭和10年から戦争による中止時期(昭和18年~20年)52頁】を挟んで昭和23年迄続きますが学習院は昭和21年には見事全国優勝を成し遂げます。それは戦争中でも野球の練習を続けた成果でしょう。

 

2】戦後の新制大学の野球

戦後,学習院は東都6大学野球リーグの2部に所属して昭和26年春秋,27年春優勝します。入替戦で勝って1部に昇格し,27年秋より35年春まで1部で健闘します。この時期が学習院の黄金時代でした。草刈投手(昭和31年卒),島津監督が活躍した時代です。特に昭和33年秋のリーグ戦では初優勝を遂げました。この優勝戦には皇太子(今の天皇)も熱心に応援されました。

以後は2部と3部を行ったり来たりでしたが,近年は最下位の4部に甘んじるようになってしまいました。今後の復活を願ってやみません。

 

さいごに(学生野球の将来)

 

さいごに学生野球の将来にふれて講演を終わりたいと思います。

大学野球については東京六大学野球の人気を何としてでも回復させねばなりません。その為には何をなすべきかを六大学野球連盟としてプロジェクトチームを作って検討すべきでしょう。

高校野球については以下の課題があります。

①少子化による部員不足(特に過疎地)に悩むチームをどのように救うか。現在も認めています連合チームの練習試合を公式試合まで拡げるかどうかです。

②野球留学(県外選手の入部)の為に高校野球文化である地域との密着性と郷土色が希薄になる矛盾をどのように解決すべきかです。

③プロアマの交流問題:現在の野球憲章で禁止されている高校野球選手に対する現役プロ或いは元プロ選手の一時的指導の道をどのようにして切り開いて行くかです。

④現在はマネージャーにしか認めていない女性部員を選手として認めるかどうかです。

高校野球の今後の発展の為には以上の課題を解決して行かねばなりません。