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島野卓爾君

 

前学習院大学経済学部教授 佐     

 

 

1950年代の終り,島野君がキール大学の留学を了えて上智大学の講師をしておられた頃,私はケンブリッジから帰って,経済企画庁の研究所にいた。どこか関西(あるいは名古屋だったか)の大学で催された経済学会で,はじめてお会いし,昼休みに町の食堂でハヤシライスなぞ食べてお話した。

1964年夏,バンコックのECAFE勤務から企画庁に戻り,新らしい「経済社会発展計画」の策定にたずさわった。国際部門を担当し,経済審議会の国際収支分科会(会長,水上達三氏)の書記をつとめた。委員には渡部福太郎氏とともに島野君がおられて,学習院の存在がきわだっていた。

あるとき島野君は,詳細な資料の提出を強い口調で求められた。もっともな要求ではあるが,関連資料を網羅して提出することは,限られた事務局人員の能力,与えられた作業期間からいって可能ではない。要求される資料は一般に共有されているものである。事務局が,それまでの討議にもとづいて作成した原案に示された予測・計画の計数について,また,政策の目的と手段の選択について,各分野の知識,経験,情報を持っておられる委員のご判断,ご意見によって修整していく作業が計画の策定であると考えていただけないか,と答えた。

のちの経済学部における同僚としての時期を含めて,島野君とのもっともきびしいやりとりであった。経済学部の教授会,学科会では,カリキュラム,入学試験,学生の処遇,スタッフ人事など諸々の問題について,たいてい意見を同じくした。

島野君の研究室に,たいそう立派な碁盤があった。絵画,音楽,スポーツ,まことに趣味豊かな島野君も,没趣味の私も,ヘボ碁を共通の娯しみにしていた。私の方が勝つことがすこし多かったと勝手に思っているが,厚さ7寸の本榧の盤の良い気分をたっぷり味わわせてもらったのは,島野君ご自身のつぎには私ではあるまいか。あの碁盤は,いま何処にいったろう。

またお手合わせ願いたいと思いながら,その後,機のないまま残念なお報らせに驚いた。葬儀の行われた広尾の禅寺は,お父上のときと同じであった。島野君はずっと前からカトリックの信仰をもっておられたと思っていたのだが。島野君は,いま何処にいったろう。

 

2005.2.2