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島野さんを偲んで

 

学習院大学名誉教授 渡       

 

 

私は35歳のとき学習院へ赴任してから70歳で定年退職するまで,島野さんと35年間同僚として過ごした。考えてみるとこれは随分と長い年月であり,一つの大学で教えたり,研究したりしているのでなければ,通常はあまりないことである。島野さんと私はこの通常ならほとんどありえない35年間の同僚という経験をしたこととなる。したがって,島野さんのこととなると,想い出されてくることはいくらでもあるという感じがする。

私は35歳の春,政経学部経済学科の「若き助教授」として学習院に赴任した。赴任するとまもなく,安倍能成院長が新任の教授・助教授との昼食会を開くので出席するようにと,事務の人に言われた。そこで初めて安倍院長にお目にかかる。院長はちょっとした訓示を兼ねた挨拶をされ,食事の間に新任の一人一人と話しをされる。豊かな白髪と口髭のよく似合う院長から身近に話しかけられたとき,この人があの高名な哲学者「安倍能成」かと緊張した。その後だいぶ経ってご自宅の広い談話室でのお茶に幾人かの教授たちとともにお招きを受けたときは,もう少し気さくに感じたのを覚えている。

いまからは想像もできないとても小さな大学だったので,新任教授・助教授といっても全学部で数人しかいなかった。その席に一緒に赴任したはずの島野助教授の姿がなかった。私はそのときまだ島野さんの顔を知らなかったので,事務方から院長へ一人一人紹介するときまで,そのことに気付かなかった。その紹介のときに島野さんが風邪をひいて欠席したことを知ったのである。

数日後,政経図書室へ顔を出したとき,スマートな着こなしの貴公子が棚から本をとっているのが目に入った。それが島野さんとの最初の出会いである。挨拶しながら改めてその都会的で知的な雰囲気に,「福島大学で馴染んできた連中とは大分違うな」と感じたのをいまでも覚えている。それまで学会のときぐらいにしか上京しなかったし,なにしろ田舎で育ち小学校から大学そして大学教師の生活も田舎である。島野さんの風貌に目をみはったのも当然である。学習院赴任が決まるまでに何度か上京し舞出政経学部長や北山経済学科主任の面接をうけたりしたが,お二人とも島野さんを面接されたときはさすが学習院出身と思われたであろう。その雰囲気は定年後にいたるも変わることはなかった。

島野さんはカソリック教徒で毎週きちんと教会にいかれていることを後になって知ったが,島野さんにはたしかにカソリック教徒だなと思わせる真面目さを感じさせられることがしばしばあった。赴任してからかなりの年月,二人とも経済学の講義や演習のほかに「外国書購読」という科目を受け持っていた。そんなあるとき学生が数人連れ立って私の研究室へやってきた。「外国書購読」で欧州経済共同体(EEC)を勉強したいので来年度私にやってもらえないか,参加希望の学生はもう集まっている,というのである。当時話題のEECには私も関心があったので,私はその好感の持てる積極的な学生達の希望に添うことにした。この学生たちは高等科からの進学組が中心で,その纏め役が佐野吉保君であった(そのときの若き学生達もいまや60歳を越え,「福ちゃん会」となって毎年一回集まっている)。

彼らは一度も休まなかった。たとえ私が休むときでも,私抜きで「外国書購読」を続行した。58頁】私がそのことを島野さんに話したとき,島野さんは学生達に感心し,とても真面目な顔で,私が休んだときに学生達はどうするのか,その「外国書購読」をぜひ見学させてほしいと言った。佐野君たちはそのときのことを鮮明に覚えていて,「福ちゃん会」で私にそれを話してくれた。島野さんは水準の高い講義をすることをいつもまじめに考えていた。それだけに学生に対しても真面目さを求めていたのを覚えている。その島野さんも還暦を迎える頃には学生に柔らかくなったように思う。

島野さんと貝塚啓明さんと私とでバラッサの国際経済のテキストブックを翻訳したこと,島野卓爾編著を始めとして多くの編著にともに名を連ねたこと,外部機関の共同プロジェクトでリポートを書いたこと,座談会で席を同じくして議論したことなど,いろいろと思い出される。1970年頃の学内紛争,いわゆる「70年安保闘争」のとき島野さんは「紛争学生」にとても厳しかったことも懐かしい思い出である。「紛争学生」のなかに文学部の某教授の息子がいて,マイクを両手で持って稚拙なアジ演説をやっていて親父の教授が頭を抱えていたり,まだ少女さの残るかわいい女子学生を相手に理学部の白髪のやさしい教授がまるで孫に言うように説得していた時代のことである。

また,学習院がまだこじんまりしていた頃には助手(現在の副手)とときおり旅行をした。そんなときドイツ留学帰りのアルペン風の帽子と茶色の皮ジャケット姿の島野さんはやはりみんなの目をひいた。助手から「先生もああいう帽子をかぶったら」と言われた宇野博二教授がにこにこしながら目を細めて「僕があんな帽子をかぶっても様にならないよ」と言ったので,爆笑の渦が巻いたのも懐かしい思い出である。あの第二次世界大戦の終わってまもないころ多くの若者がアメリカへ留学した。そのころに,ドイツへ留学した島野さんというのはやはり「信念の人」だったのであろうと,そのとき感じたのを覚えている。

日本関税協会の理事会で島野さんが講演をしたのは亡くなられる10ヶ月ほど前のことであったように思う。私は久しぶりに島野さんのドイツ経済の話をすぐ斜め横の席で聞いた。そのとき島野さんは国際大学の学長であり,にこやかとして元気であった。赤坂プリンス・ホテルの旧館は明治調の風格のある建物である。その一室での講演が終わった後,用事のためゆっくりできなかった島野さんと赤い絨毯のロビーでしばし立ち話をした。今度ゆっくり会いましょうと言いながら,にっこりと手を振って玄関を出ていったのが最後となった。