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大石さんを悼む

 

学習院大学経済学部教授 石     

 

 

たしか大学院生のころ,大石慎三郎著『田沼意次の時代』を読んだ。賄賂政治家といわれ,批判的に描かれることの多かった田沼意次のことが,私は昔からなぜか気になっていた。日本の学校教育では,小学生の時から,江戸時代の「三大改革」として享保,寛政,天保の改革を覚えさせられる。最も理解し難かったのが寛政の改革だ。私には,松平定信のこの改革が,何とか規律を取り戻し,古くさい江戸時代のシステムを延命させようとする姑息な手段としか思えず,「改革」の名にふさわしくないと感じられた。だから,松平が否定した田沼意次の政治が逆にとても魅力的に思えたのだ。

高校生くらいのころ,山本周五郎の『栄花物語』を読んだ記憶がある。細かいことは忘れてしまったが,田沼意次とそれを取り巻く人々の生き様がいきいきと描かれていた。従来,「悪玉」とされてきた田沼が,時代に先んじた改革者,そして先んじたがゆえに挫折してしまった悲劇の人として,従来の史観とは異なる新たな視点でとらえられていたように思う。私は,ずっと,山本周五郎の描いた田沼像が真実のものであるのかどうか知りたいと思っていた。そして出会ったのが大石さんの著書だ。『田沼意次の時代』は,史料を丹念に読みながら,従来の賄賂政治家としての田沼像を一変させた名著である。実のところ,私は江戸時代研究の現状についてはあまり知らないが,大石さんの著書以降,田沼を斬新な改革者とする理解が,一般に広まったのではないかと思う。

私が学習院に赴任したとき,大石さんはすでに退職され,名誉教授となっておられたから,直接会ってお話をうかがったことはない。もしお会いできたとしても,同じように日本経済史を専攻とするとはいえ,江戸時代を中心に史学研究をされていた大石さんと,20世紀後半を中心に経済学に近い研究をしている私とでは,なかなか共通項を見出せなかったかも知れない。しかし,田沼意次という型破りの政治家に興味を抱いていたという点で,私は大石さんから非常に多くのことを学べたのではないかと思う。

もうずいぶん前になるが,大石さんの著書に魅力を感じて,学習院大学経済学部を選んだという学生さんに会った。入学したときには大石さんは退職されてしまった後だったとのことで,とても残念がっていた。たぶん,大石さんは,経済学部を狭い専門領域の中に閉じ込めず,その包容する範囲を大きく広げる役割をされていたのではないかと思う。

ご冥福をお祈りします。