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追悼・大石慎三郎先生

 

(財)信州農村開発史研究所主任研究員 斎     

 

 

大石慎三郎先生は,昨年510日,東京都府中市榊原記念病院で肺炎のため逝去されました。享年80歳でした。それからほぼ1年が経ちますが,いまだに残念でなりません。

先生は,1923(大正12)年に,愛媛県北条市でお生まれになられました。44年に東京帝国大学文学部国史学科に入学され,兵役をはさんで,49年に東京大学文学部国史学科を卒業されました。

文部省史料館・市立高崎短期大学・神奈川大学を経て,63年に学習院大学経済学部教授となり,943月の定年まで務め,同年4月に学習院大学名誉教授となられました。

この間,75年より84年まで学習院大学史料館長を兼ね,83年より87年まで学習院大学経済学部長を2期務められました。また,81年より徳川林政史研究所長を兼ね,学習院大学退職後の989月まで務められました。9410月には,新設された愛媛県歴史文化博物館の初代館長となり,逝去の日まで務められました。

先生は,近世農村史の研究から歴史研究に入り,その後「享保の改革」を生涯の研究テーマとされましたが,それにとどまらず研究は多岐にわたりました。著書は多数ありますが,主なものをあげますと,研究書には『封建的土地所有の解体過程』(御茶の水書房,58年),『享保改革の経済政策』(同,61年。この年12月に「享保の改革の経済政策」で東京大学より文学博士の学位取得),『近世村落の構造と家制度』(同,68年),『日本近世社会の市場構造』(岩波書店,78年),『田沼意次の時代』(同,91年),『享保改革の商業政策』(吉川弘文館,98年)などがあります。

一般書には,『庶民の抬頭』(講談社,69年),『元禄時代』(岩波新書,70年),『大岡越前守忠相』(岩波新書,74年),『江戸時代』(中公新書,77年),『天明三年浅間大噴火』(角川書店,86年),『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書,95年)などがあります。このほか自治体史や史料集の編纂も数多く手がけられました。

このように先生は,相次いで著書を発表され,また学内外で要職を務められました。その働きぶりは,私からは驚異的に思われます。

これについて,助手時代のことですが,忘れられない思い出があります。ある調査旅行にお供したときのこと,私は前の晩に酒を呑み過ぎて,朝5時ごろに目がさめてしまいました。そこでトイレに行こうと廊下を歩いていると,先生の部屋のドアが開いていました。何気なく見ると,なんと先生が机に向かっておられたのでした。前の晩,一緒に酒を呑まれたのにもかかわらずです。我が身を省みざるをえませんでした。

このような先生に,私が初めてお目にかかったのは,文学部史学科に入学した70年のことでした。以来,30年以上にわたってご指導いただいてきたわけですが,とくに77年に修士課程を修了し,史料館へ助手として就職してからは,公私にわたってご指導いただきました。史料館では,館長の次が助手で,さまざまな用務があったからです。おかげで右に一例を述べたように,先生の仕事ぶりを身近で見聞することができ,さまざまな勉強をさせていただくことができました。

152頁】先生から折にふれて教えていただいたことはたくさんありますが,なかでも「通説を鵜呑みしないこと」「できるだけ現地に足を運ぶこと」「文章はわかりやすく書くこと」などの教えは肝に銘じています。

その後,85年に史料館を退職し,現在の職場へ勤務するようになってからも,引き続き親身にご指導いただきました。とくに95年には先生のご推薦で,先生がプロローグを執筆され,私が本文を執筆した『身分差別社会の真実』(講談社現代新書)を出版することができました。これは先生のご推薦がなければかなわなかったことです。

ところが,2001年に先生が,中学校用のある歴史教科書の監修者に名前を連ねておられることを知り,音信を控えるようになってしまいました。私には,この事実を受け入れることができなかったからです。今となってみれば,先生のお考えを率直にうかがっておくべきだったと悔やんでいます。

そのような事情で,この数年は音信が途絶え勝ちでした。そうしていたところへ先生の悲報がもたらされました。さっそくお伺いしようと思いましたが,「死者は生者を煩わすべきではない」という先生のご指示で,ご葬儀は近親者だけで営まれるということでしたので,後日お焼香させていただきました。その際,最後まで先生のお側におられた方から,「先生が斎藤さんの処遇のことを心配しておられましたよ」とうかがい,感謝とふがいなさとで,涙がこぼれました。