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大石さんを偲ぶ

 

学習院大学名誉教授 渡       

 

 

私が大石さんと初めて出会ったのはかなり昔のこと,私がまだ福島大学の若い助教授の頃である。その当時,経済学部には図書館とは別に地方経済の統計資料や歴史資料の保管・整理をする経済調査室というのがあった。経済学部には20代半ばから 30代始めにかけての若年の講師,助教授が多く,私もその一人であった。後に近代経済学と経済学史の領域でそれぞれ大御所となった熊谷尚夫と小林昇,そして日本経済史の藤田五郎という三人の若い教授がいて,その若い教授よりもさらに若い講師や助教授たちの衆望を集めていた。経済調査室は学部におけるそうした元気な研究者たちのいわば「溜まり場」となっていた。

その経済調査室で大石さんと偶然にも初対面の挨拶を交わしたのである。経済調査室はいつも活気に溢れ,開放的で遠慮のない経済論議の場であり,教養と不教養の入り交じった談笑の場でもあった。あるときいつものように経済調査室へ入っていくと,日本経済史の連中が訪問客らしい若い人を交え,お茶を飲みながら,なごやかに談笑していた。紹介されたとき,その若い人は「大石です」と言ってお辞儀をした。大石さんと私の最初の出会いである。

その当時,学部の経済史領域には若手の講師と助教授が45人いた。彼らは日本資本主義分析を共有の研究課題にしていて,いわば「時流」のなかにある活気に溢れた研究者たちであった。やがて彼らの「寄生地主制研究」が当時の日本経済史研究への新たな貢献と評価され,学界の注目を集めるようになった。その頃から他大学の日本経済史研究者がときおり福島へやってきて経済調査室を訪れるようになった。大石さんと初対面の挨拶をしたとき,彼もそうした研究者の一人と思ったはずである。とくに印象に残ったわけではない。私自身は国際経済学へ研究対象を広げ,それにかまけていた頃なので,そのとき紹介された大石さんのことは研究室へ戻ったときには私の頭から消えていた。その出会いについての私の記憶が呼び戻されるのは,後に二人が学習院大学で,偶然にも同じ学部の同僚となったときである。

その若い大石さんが後に江戸時代の研究者としてその名を知らない人はいないほどの大物になることや,学習院大学の研究室でお喋りを交わす同僚になるなど,そのときは思いもしないことであった。その頃の私には福島大学を辞めてどこかへ移ることなど,そもそも念頭になかった。当時,私淑していた近代経済学と経済学説史の二人の先生から,いまの時代からは想像もできないほど,私は研究上のアドバイスを始めとして,幅広く経済学のいろんな点で教示をうけ,ときには文学的教養に満ちた雑談を聞いたりして,その幸運と恩恵に大いに満足していた。さらに,若い同僚達は知的な,ときには卑俗な,遠慮のない楽しいお喋り仲間であった。つまり,私にとって福島はきわめて居心地のよいところだったのである。

しかし,やがて二人の先生はつぎつぎと福島を去られた。そしてまもなく,私を含めた若いお喋りたちにも「転機」が訪れるようになり,私は学習院大学へ移ることになった。こうして 11年間におよぶ福島大学での実り豊かな「牧歌的な私の講師・助教授時代」が終わった。私が 35 歳のときである。それから何年後のことかはっきりとは億えていないが,大石さんが日本経済史の担当者として学習院大学へやってきた。教授会で大石さんが新任の挨拶をしたとき,どこかで157頁】見たことのある顔だなと思った。「若い」大石さんはその苗字のように「どっしりとした」大石さんになっていたのである。

学習院大学へ移ってきた頃の大石さんは私と同じように研究室を仕事場としていた。研究室にいることが多く,お互いにふらりと寄っては骨休みによくお喋りをした。一つのフロアに経済,政治,法学,社会などのスタッフの研究室が並んでいて,廊下や研究室での学際的な会話がおのずと成り立っていた小さい大学の頃である。社会学の清水幾太郎さんがいて,ときおりその研究室でコーヒーをご馳走になり知的なお喋りを楽しんだが,もちろん,彼が「転向」して「穏健」になってからのことである。大石さんは清水さんにはほとんど関心を示さなかった。おそらく大石さんの感性は清水さんの醸し出している空気に馴染難いものを感じていたのであろう。

大石さんは文学部で学んだ日本史研究者であったが,文化や政治だけでは不完全で経済との相互関連に目を向けなければ,という主張をもっていた。彼はこうした方法論をしばしば話題にし,その話を私にしてくれた。幸いにして,私が福島にいたころ,例の経済調査室でのお喋りのなかで日本経済史の連中から日本経済史研究のはしばしを聞かされていたので,大石さんとのこうした会話はそれなりに楽しめた。足で探した資料から帰納的に研究をまとめる方法に重点を置いていた大石さんは,歴史理論を基礎にしてそれに合った資料を探し,それを中心に研究をまとめていく方法は正道ではないと言っていた。つまり,そのころの「時流」の研究方法には批判的であった。その頃,大石さんから近代経済学,とくにマクロ経済学についてときどき質問を受けたが,それは彼の研究姿勢と関わりのあること,と思ったのを覚えている。

そのうちにお互いに研究が広がって脂がのり,学外での仕事も多くなっていった。大石さんの研究の場が大学の研究室ではなくなっていった。それにつれて,お互いに研究室を行き来してのんびりとお喋りする機会もなくなっていった。それは自然の成り行きであった。後年になってから,大石さんは「本が出たので」といって何度かその著書を私に手渡しで贈って呉れた。いずれも専門外の私にもわかる江戸時代についての啓蒙の書であった。大石さんの活動は幅広く広がっていったのである。

痛風を心配するようになったのはその頃からであったのかもしれない。あるとき研究室を出ると珍しく大石さんとばったりと出くわした。少し話しでもしようかと,私の車に乗りお喋りをしているうちに吉祥寺までいってしまった。そのとき大石さんは彼が贔屓にしているという美味しいすし屋へ私をつれていった。その美味しいすしを食べながら,あれこれとお喋りした。そのとき彼は「どこそこのなには美味しい」といった話しをいろいろとしていたのを想い出す。大石さんはその頃にはもう美食家になっていたように思う。学習院へ移ってきたばかりの頃には,そんな風情はまったくなかった。

日本社会に江戸時代ブームが起こり,やがて「江戸」が定着したような雰囲気の世の中となった。江戸時代についての長い間の「偏見」がいつしか払拭されていった。それには大石さんも大いに貢献したのだと思う。日本経済の現状との共通項があるというので,江戸時代の享保の経済政策と対比した大石さんの経済論文が発表されて,話題を呼んだりした。「日本社会のなかに根強くある江戸時代」「日本の経済社会の基本は江戸時代も今もあまり変わらない」といった認識がそこにあったように思う。

そうなると,おのずと出てくるつぎの課題は明治維新についてのこれまでの「偏見」の払拭ということになる。元気でさらに長生きしていたら,大石さんの研究と発言がそこへ伸びていったかどうか,私にはわからない。大石さんが明治維新や維新政府の政策に関して私に話すのを聞い158頁】たことがないように思うからである。つい先頃,それに取り組んでいる若い世代の研究者たちの研究書についての話しを何かで読んだ。明治維新についての「偏見」の払拭はすでに始まっていることを知った。大石さんが健在で,昔のようなお喋りのゆとりの時が戻っていたら,このことを聞けたのに,と思う。

定年退職の日が近い頃,大石さんが珍しく共同研究室へ現われコーヒーを入れていた。その場の何人かの雑談を聞いていた大石さんが「エコノミックでないといかんよ」と一言ぽつんと言って,コーヒーの入ったコップを手にして出ていった。どの人達のどのような会話の流れに対してその言葉が発せられたのか,まったく思い出せない。しかし,なぜかそのときの光景だけは不思議につよく記憶に残っている。

大石さんが定年で辞めた後,いつだったのかよく億えていないが,目白の駅前で彼とばったり出会ったことがある。「やー元気かね」「まーまー年相応にね」と言葉を交わし,久しぶりにコーヒーでも飲みながらお喋りでもと思ったのだが,「仕事があるので」というので,そのまま別れた。あい変わらず忙しい生活をしているな,と思いながら,徳川林政史研究所の方へ歩いていくその後ろ姿を見送った。大石さんが亡くなったと聞いたのはそれから何年も経ってからのことである。大石さんは死ぬときまで忙しくしていたのであろう。