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多能にして異能,田島義博先生の思い出

 

関西学院大学商学部教授

石原 武政

 

私が「田島義博」という名前を初めて目にしたのは,1961(昭和36)年に神戸商科大学に入学した直後だった。生意気にも専門科目である「商業経済」を履修したところ,その参考文献の中に必読書としてJ.A.ハワードの『マーケティング•マネジメント』が紹介されていた。田島先生が翻訳されたばかりの本だった。高かったが思い切って購入した。それから2年後,前年秋に出版された林周二『流通革命』が新刊雑誌『市場と企業』の連載を基にしたものであること,その編集長が田島先生であったことを知った。田島先生ご自身の『日本の流通革命』も読んだ。

こんな出会い方をすれば,田島先生が自分よりもはるかに歳上であると思うのは自然であろう。はるか彼方の人で,お会いしてお話しする機会なぞ訪れるとは考えもしなかった。私が学会の道に進み,遠くから「実物」を現認し,私と一回りしか違わないことを頭で理解するようになっても,この感覚は変わらなかった。あの時,田島先生はようやく30歳を超えたばかりだったのか。自分がその歳になるとそのことが余計に重く感じられた。私がずっと関西で生活したせいもあろうが,田島先生はずっと彼方の人であった。

1980年代の中頃,田島先生を囲むようにして開かれていた流通行政研究会にお誘いを受けた。そこで初めて生身の田島先生と接した。関西の生意気だった私を,ほとんど初対面のときから暖かく受け入れてくださった。研究会では,美味しそうにタバコの煙を吐きながら,「あのおー」で始まるあの独特の語り口で薀蓄が傾けられる。話題は豊富で,比喩も巧みだった。議論というよりも,「田島節」の独演会という雰囲気になることも少なくなかった。容易に口をさしはさむ余地がなかった。それほど研究会への参加者は田島節に酔いしれていた。

話は研究会が終わってからも,中華料理店から銀座へと河岸を変えて続いた。その日の議論と少しでも関係がありそうなことであれば,何でも話題になり,田島節が冴え渡った。話題の豊富さには驚嘆したが,それは先生の付き合いの良さによるものだった。頼まれたら断れない性格だったに違いない。驚くほどのひろがりをもった交友関係であったし,しかもそれをほとんど覚えているという記憶力がまた驚嘆であった。「人を3人介せば誰とでもつながる」と言われたことがある。にわかには信じられなかったが,田島先生を介せばそれも可能かもしれないと思った。

「ぼくの語学の教室は銀座だ」と言われたことも耳の底に残っている。その遊び心がまた田島先生の底知れぬ魅力であった。酒飲みはどこの世界にもいる。しかし,マイペースを崩さず,店の女性(ひと)や初めての客人とも,実にフランクに会話することができる人はそれほど多くない。その中に,相手の母国語が頻繁に入り込む。グラスを片手に語学の実地訓練ができ,それが身についていったというのが不思議でならない。

その後,学会や行政の審議会など,さまざまなところでご一緒させていただいた。そこには上の田島節とは別の博学にして整然と議論を整理する田島先生の姿があった。

幼い頃の歳の差はきわめて大きいが,長ずるにしたがって歳の差は気にならなくなるものだ。しかし,田島先生の場合は違っていた。今振り返ってみて,12年前の田島先生はもっと大きかったと思う。その感覚が何年たっても変わらない。加速度を上げて追いかけたつもりでも,追いつくどころか近づくことのできなかった多能にして異能な巨人であった。