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お別れの言葉

 

株式会社セブン&アイ・ホールディングス名誉会長

伊藤 雅俊

 

先生と初めてお目に掛かったのは,昭和35年。先生が日本能率協会で「マネジメント」の編集長をされていた頃でした。当時のスーパーはスーと出てきてパーと消えると揶揄された時代。イトーヨーカドーも年商十億円,社員数も100人をようやく超えた正に新興企業でしたが,先生は流通業界の将来を予見され,新しい時代の流通のあり方について数多くの示唆を与えて下さいました。

 

先生から頂いた多くの教えの中で,私共グループの経営の礎となり,今でも息づいている考え方が自己資本利益率(ROE)という概念です。今ではごく当たり前に口にされる経営指標ですが,昭和四十年前後の当時ではそんな言葉も概念も知られていませんでした。資本と負債の財務バランスと投下資本に対するリターンの重要性を説かれるとともに,それは単なる数字ではなく,その背後には経営哲学があることを示すために,フロリダのパブリックス社と,その創業者であるジェンキンスさんをご紹介下さいました。パブリックス社は社員・お取引先を大事にし,地域のお客様に愛されている素晴らしい会社でした。高度成長経済の最中,拡大路線一辺倒だった日本経済,業界にあって,質を伴った経営を標榜,実践できましたのも先生のこの教えのお陰です。

また,先生は財団法人流通経済研究所の理事長として,学習院大学の教授として,数多くの研究者,教員・教授を輩出され,我が国経済,取り分け流通業界にとって多大な貢献をされました。財団法人流通経済研究所創立四十周年を記念して出版された「歴史に学ぶ 流通の進化」でも,歴史的,哲学的視座に立たれた流通論,経営論で今日の商道徳の欠如を嘆かれ,商業倫理の大切さに言及されていました。

 

学問としての流通,マーケティングをお教えいただいたばかりではなく,「論理や知識はいずれ陳腐化する。学問とは文字通り『問うことを学ぶ』ことだ」と,物事の見方・考え方,そして人としての生き方についてまでご教示頂きました。

先生,奥様との会食は私共夫婦にとって何よりの楽しみでした。流通業界,学校経営のお話もさることながら相撲,歌舞伎,クラシック音楽,京都祇園など,先生のお話は多岐多彩に亘り,いつも時間が経つのを忘れてしまうほど楽しく過ごさせて頂きました。

早くにご両親を亡くされ,おばあ様に育てられ,肺結核も患われながら大変な苦学をされたということもそんな時に明るくお話下さいました。そんな大変な思いをなさったことなど微塵も見せないお人柄をいつも尊敬申し上げておりました。

そんなご苦労からか,人に対する思いやり,心配りが本当に深く行き届き,ご家族に対するそれと同じくらいの愛情を持ってすべての人と接しておられました。そんな姿勢に多くの人々が共感し,惹きつけられていたのだろうと思います。私もその内の一人でした。