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田島先生の思い出

 

本学名誉教授

小山 昭雄

 

私が上智大学から学習院大学へ移ったのは1970年の4月である。当時は学園紛争が盛んな時期であり,上智大学でも授業はほとんどおこなわれず,教員もガードマンのような仕事で明け暮れていた。そのようなとき,学習院大学から,来てほしいという申し出があったので,私は喜んでその申し出を受けた。それから1997年に定年退職するまでの27年間は私にとって,たいへん楽しく,かつ,有益な日々であった。学習院大学では多くの先生方と親しくしていただいたし,日常の会話の中で,多くのことを教えていただいた。

 

田島先生の思い出を書くために参考になる文献があれば見せていただきたいと,先生の御子息の博和さんにお願いをして,流通経済研究所から出されている雑誌「流通経済」の最新号を送っていただいた。この研究所は田島先生がつくられた研究所であり,いただいた雑誌の中には先生のかかれたエッセイが数多く載っている。また,先生が関係をもっておられた政府関係の審議会などのリストにもあるが,その数の多いことに驚いた。私の目から見れば,田島先生は,まさに「スーパーマン」であられた。先生はまた,大相撲の世界ともご縁が深く,その頃の新年の初顔合わせのときに,当時の横綱の兄弟であった若乃花と貴乃花が挨拶に来たよ,と話しておられるのを聞いたことがある。いつの場所であったか忘れてしまったが,大相撲のときの枡席に岡本哲治先生と私を招待してくださったことがある。私が大相撲を枡席で見たのは,その時だけである。また,流通経済研究所の何回目かの創立記念日のパーティーに招待していただき,そのときの引き出物として,若乃花,貴乃花の手形を押した色紙をいただいた。今でも大切に持っている。

 

田島先生が学習院の第24代の院長になられたのは平成14年の夏からである。第23代の島津院長の時代は学習院の事務理事として院長を支えてこられた。その間の先生の手腕とお人柄からすれば,先生が時期の院長に推されたのは当然の人事であったと思う。院長になられてからは,幼稚園から大学にわたる各段階での子供たち,学生たちに対して,こうあってほしいと望んでおられた先生の熱い思いが,先生のかかれた「人間力の育て方」という本になっている。この本には,教育者としての先生の心の暖かさが充ちている。

 

私は在職中から「安倍能成教育基金」の運営委員会の委員を依頼されているために,定年退職後も,年に数回の運営委員会には出席している。その席で,座長であられた田島院長にはお目にかかっていたが,何年か前から,先生の体の調子が完全ではないようだ,と感じていた。そして,今年になってから,その不安が現実のものとなり,先生は帰らぬ人となってしまわれた。私の思いは「惜しい人を失ってしまった」という口惜しさで一杯である。この思いは,先生を知っているすべての人にとって同じであろう。今となっては,私にできることは,先生と交わしたいくつかの会話の中で,心に残っているものを思い浮かべながら,感謝の気持ちを込めて,御冥福を祈るだけである。