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田島先生をおくる

 

経済学部教授

湯沢 威

 

田島先生はさまざまな分野で活躍された。仕事の幅,学問的な視野,人脈,趣味などいずれも私が知るのは,ほんの一部でしかない。したがって,私の先生に対する印象はごく表面的なものに過ぎないことをお断りしておかなければならない。

 

私がここで田島先生について述べることが出来るとすれば,経済学部のスタッフとしての先生に関する印象である。あの多忙な田島先生の偉いところは,外部での仕事をこなしつつ,教育や学部の業務にもことのほか熱心であった,ということである。教育については,私は直接教わったことがないので,その内容を知る立場にはないが,多くの研究者を含む多彩な人材を育成されたことは間違いない。限られた時間で教育,とくにゼミ生や大学院生を指導する一種の仕掛けを作っておられ,それが輝かしい実績に結びついたのではないかと思う。また先生は社会に対し幅広い提言する中で,自らの職業でもその成果を示さなければ,言行不一致のそしりを受ける可能性もあり,それを強く意識されて教育の実をあげておられたのではないだろうか。

 

先生は教授会を欠席されることはまれであった。われわれの中には,教授会よりも,外部の仕事を優先して,教授会をなおざりにする風潮が無きにしも非ず,であるが,田島先生は教授会にはよく出席された,と思う。出張先から飛行機で飛んで帰って,教授会に間に合わせた,という話を聞いたこともある。しかも,教授会では名目上出席するだけと言うのではなく,議論の牽引者としての役割を果たされた。カリキュラムの改革など教育の中身についてもことのほか熱心に議論されていた。その背景には文部省(当時)の設置審の委員を経験されていたことも関係しているのかもしれない。口の悪い同僚などは,教授会を楽しんでいる,との陰口をたたく人もいたが,私は何事にも熱心にかかわられる先生の人柄に感心していた。

 

田島先生の専門分野の学問業績については,私はなにも言う資格がないが,ただ,合間をみて語学を勉強されておられたことは敬服する。それも,私の知る限り,英語に限らず,中国語,ロシア語などであるが,それ以外にも理解されている言葉があるかもしれない。これを土曜日の午後などに女子の留学生から直接学ぶ熱意には感心させられる。私が国際交流の仕事をしている時,専務理事である田島先生に中国人の先生を紹介したら,とたんに流暢な中国語で話され,その中国人もびっくりしている場面を拝見したことがある。

 

学部長になられたのは,まったく思いがけないことのようであった。当時の学部の慣行からすると,年功序列の順番で決まっていたものが,何人か飛ばして,学部長に選出されたのでご本人も晴天の霹靂であったと思う。定年までは学部長の順番は回ってはこない,学部長は免れるはずだと,よく言っておられたが,この学部長をきっかけとして,専務理事,院長,という方向に進まれることになった。院長になって盛んに強調されたのは,「嘘をつくな」と言うことであった。これはかって安倍院長が「正直であれ」をモットーとされていたことの現代版を意識されていた386頁】のかもしれない。しかし,他方で,われわれには酒の席で,「嘘はつかない,でも全部は言わない」ともよく言われた。これは決して矛盾するものではないのであろう。

 

先生のあの小柄な身体から,どうしてあのようなエネルギーが生まれてくるのか不思議でならない。しかも,ご自身で身体を鍛えているという話を聞いたことはないし,学生時代にボート部に入部されたが,それは小柄で声が大きいという理由から,コックスに抜擢されたに過ぎなかった,という。ご自分の身体を鍛えることとは関係はなさそうである。しかも,都内の移動はほとんど車であり,公共の交通機関を使っているところをお見かけしたことがない。聞くところによると,バスの乗り方も知らなかったという。これでは決して足腰には良いことではない。しかも,酒とタバコと夜更かしが多い生活であった,と思われるから,ご自分で身体に気を使っていたとは到底思えない。先生自身健康を過信されていたのではないだろうか。亡くなられる数ヶ月前にお会いしたとき,ご自分の病歴を淡々と分析され,転院後は,回復が早いのではないかと思っていた。

 

ところが,あまりにも早く世を去ってしまわれた。私としてもいろいろご相談したことが沢山あったが,今となってはそれも出来ない。先生のご冥福を祈るのみである。