須恵器などの古代の焼き締め陶のうち、とくに自然釉が美しく流れるような、妙なる姿と表情をみせるうつわは、特別にハレのうつわとして使われた。たとえば、7世紀の静岡県の湖西窯産の須恵器壺は人気を博したようで、東北から関東の集落跡で発見されている。当時すでに国内には広く須恵器の窯が存在したにもかかわらず、あえて湖西窯産の製品が求められていたのである。それは湖西窯産の製品のもつ美しさ、つまり自然釉の見事さと素地の白さが、古代人の心を魅了したからに違いない。土や炎を通じて自然界に存ずる霊気が壺に宿り、聖性が帯びると考えられていたのであろう。

普段はほとんど意識しないが、私たち日本人が伝えてきたやきもの文化のなかに、じつはアニミズム的な見方が、色濃く反映されてきたことが実感される。土と炎という自然の力から生み出されるやきものに、何か神秘的なものを感じ取っていたに違いない。

さて、ここで時代はずっと下がって、桃山時代の茶陶に話題を転じてみたい。天正二(1514)年の京都・相国寺における織田信長主催の茶会で、名物中の名物である唐物(中国産)茶入の「初花肩衝」が使われた。この茶入を観察した茶人・津田宗及は、茶会記(『宗及他会記』)のなかで、以下のような記録を残している。


初花かたつき、始而拝見申候、なたれ三筋有、口ノつくりひらりと有、薬うすかきニこいかき、うわくすりにかけたり、土紫色アリ、そこへけそこなり、くすりの色のうちにも、土ニむらさきをふくミたるようのこころあり、薬一段うるわしき也、
(意訳)
初花の肩衝をはじめ拝見した。釉なだれは三筋ある。口のつくりはひらりと軽やかなものである。釉は下釉に薄柿色、上釉に濃い柿色を掛ける。素地の色は紫色を帯びている。底はごけ底である。薬の発色で素地と同じように紫色に感じられるところがある。薬の調子は実に素晴らしい。


これらをまとめると、その多様な釉薬の表情に対し、細かな観察がなされていることが明らかになる。釉の全体の色あい、部分での色の微妙な変化。あるいは釉の二重掛けにおける上釉と下釉との混じり合い方。そして釉が流れていく様子などを、詳細に記録しているのである。なお、この茶入は信長死後、豊臣秀吉の手中に落ちている。

このような唐物茶入の愛玩ぶり、とくに釉の流れに執着する鑑賞法は、中国から学んだものではあるまい。中国では当時、おそらく雑器に過ぎなかった茶入を、日本人の側がその感性に合うやきものとして選び取ったのである。唐物茶入の微妙な釉の変化に注目した価値観には、日本人が古来親しんできた焼き締め陶器の自然釉への愛着が、原点となっているのではないかと私は思う。

このような人智を超えた、窯のなかで創造される土と炎がつくる景色を愛でる日本人の感性は、時代を越えて伝えられてきたのである。

土器(かわらけ)─楽茶碗の源流

 茶碗を手の中に入れ、ためつすがめつ眺めるたびに、土という素材が醸し出す色の複雑さや温かさ、そしてかたちの上での様々な変化に出会うことができる。私たちは土でできたうつわに触れると、なぜか懐かしい温もりが蘇り、心地よい感覚に充たされるのである。

 今回の展示で試みたもののひとつに、楽茶碗(図2)のとなりに古代の土器(図3)を並べることがあった。楽茶碗といえば、「一楽二萩三唐津」とよばれるように、侘茶のなかでも最も大切にされるうつわである。ではなぜその楽茶碗に、あえて古代の土器を並置させたのか。それは、日本人が茶碗に込めた意味、さらには土に込めた思いを読み取ろうとしたからである。

 繊細な感性を有する日本人は、やきものを視覚からだけではなく、掌にのせて触覚までも活かして鑑賞してきた。その日本人がこよなく愛してきた、肌触りのよいお茶碗の代表が、桃山時代(16世紀末期)に京都で生まれた楽茶碗であろう。楽茶碗こそは、土という自然の素材とじっくりと対峙することによってつくられたうつわであり、土そのものが発する生気を、人間の手へと直接伝えようとしたやきものと思われるのである。

 千利休と楽家初代の長次郎は、天正年間(1573~1591)の中頃、つまり1580年代に破格の茶陶を生んだ。それはあえてロクロを使わない、手づくねによる茶碗である。長次郎の指の動きがそのまま伝わるもので、軽やかでまろやかな、いかにも土器のような雰囲気の素焼の茶碗である。焼成温度は約800度と、まさに土器とほぼ同じで、もろく柔らかく壊れやすいのが、材質的な特徴といえる。このもろさや柔らかさは、室町時代以降人気を博してきた、ロクロで成形し1200度以上の高温で焼く唐物の天目や、高麗物(朝鮮半島産)の井戸茶碗とは、全く異なる造形であった。

図3 白色土器 
平安京内裏跡出土
(京都市考古資料館蔵)
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