ゴッホが、よりにもよって、ゴーギャンが最も好みそうにもない作品を、ゴーギャンの到着直後に制作したのは、無邪気や無思慮のゆえではなく、おそらくかなり意識的な行動、デモンストレーションであったと考えられる。それは、8ヶ月のアルル滞在の必然的な結果であった。第1章で述べたように、さまざまな前衛の様式が渦巻くパリからゴッホが逃げ出したのは、自らの道を見出すためであった。そうしたゴッホがアルルで求め、そして見出したものは、しかし、ポロックの指摘するような、現代から目を背けた、空想の理想郷では必ずしもなかった。ゴーギャンやスーラがそうであったように、そしてまたモネやルノワールやセザンヌがそうであったように、ゴッホもまた、したたかな戦略家であった。大画商の店員として、ハーグ、ロンドン、パリの美術界に接し、同様に画商に勤めていた弟テオから常に美術界の動向に関する最新の情報を入手し、アルルへ来る前の2年ほどをパリで過ごしたゴッホが探し求めたのは、さまざまな思惑が入り混じる前衛の坩堝の中で、自らを差異化するための方策であった(註42)。

 第1章ですでに示唆したように、南仏へ赴いたのも、有望な画題としてセザンヌやモネが開発し始めていた南仏(註43)の新たな「開拓者」たらんとする意図が含まれていたものと考えられるが、それ以上にゴッホが意識したことは、これも第1章で指摘したように、前衛の中で特に目立った動きを見せていたスーラやゴーギャンと自分との差異化であった。言い換えれば、パリを離れたアルルでのそれまでの8ヶ月は、スーラ風ともゴーギャン風とも異なる「ゴッホ独自」の表現様式の模索の時期であった。

 ゴッホ美術館の保存修復家であるコルネリア・ペレスは、ゴッホがアルルに到着してまず最初に取り組んだ「花咲く果樹園」のシリーズの修復のための調査を通して、ひとつの大変興味深い美術史的な結論に到達している。それは、「花咲く果樹園」のシリーズの中には、さまざまな絵具の使い方、タッチの使い方、絵具の盛り上げ方が混在していて、それは、ゴッホが、一方ではスーラの技法(点描技法)と、他方ではゴーギャンの技法(クロワズニスムと称されることになる、平面的な色彩技法)と取り組みながら、いかにして自らの技法、絵具の用い方を見出してゆこうとしたかという、探求の跡を示している、というのである(註44)。

 もちろん、問題は、そう単純に技法の問題だけに還元されるわけではない。彼が取り組まねばならない当面の相手、スーラとゴーギャンは、単に斬新な新技法によってのみ自己を前衛の最前線に押し出してきたわけではなく、質こそ大きく違うものの、その「主題性」によってもまた、それぞれの差異化を図っていたのである。第2章で見たような、「種播く人」を典型的な例とするゴッホの「擬似宗教性」は、それはそれで、スーラやゴーギャンに対抗するためのゴッホの有力な手段だったのであり、最終的に見てその方向での戦略が成功したことは、これも第2章で見たように、オーリエに始まり今日の美術史研究家にまで至る、ゴッホ評価史が示すところである。

 けれども、そうした複雑に絡む思惑の中、少なくとも1888年10月末の時点においてゴッホが自らの戦略として選択し、当のゴーギャンに対して、ひとつの挑戦として提示したのは、その内容性、意味性、構想性が限りなく薄まり、技法的な側面が強く押し出された《種播く人》であった。そして、象徴性の痕跡として、最後にそこに描き加えられた種播く人の姿は、ちょうどゴーギャンがゴッホに対する最大限の敬意のしるしとして、ゴッホが慣れ親しんだ、そしていま目の前にある「アルルの農場」をテーマとして選んだのと同じく、構想性を重視するゴーギャンに対する最大限のエクスキューズであったと考えられるのである(註45)。

 ゴッホにとって、モダニズムの中での独自の戦略として重要だったのは、ポロックの言う現代性からの逃避以上に、現代的な筆遣い、そして現代的な制作法であった(註46)。そして、その方向は、ゴーギャンのアルル滞在がなければ、さらに先へと展開していったものと、筆者は推測する。

 けれども、実際には、ゴーギャンはアルルへやってきたのであり、そして、ゴッホが提示した彼独自の技法は、おそらく、ゴーギャンによって酷評されたものと考えられる。10月末の《種播く人》についてゴッホが、僅かな、極めて短い、しかも曖昧な言葉しか残さなかったことは、ゴーギャンによる徹底的な批判なしには考えられないであろう。そして、それからしばらく、ゴッホは、10月末の時点で到達していた様式的地点から大きく後退し、ゴーギャン流の平面的様式、そして象徴性の色濃い主題へと再び向ってゆく。

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註42:
印象派とそれに続く世代の前衛画家たちが、美術市場、展覧会、画商、収集家、批評家といった、美術をめぐる社会的メカニズムの中で、自らを「売り出す」ためにどのような戦略をとってきたかという問題は、近年の美術史研究の中でも最も注目され、また成果のあがっている研究分野である。ここでは、それらの研究の個々に言及する余裕はないが、ゴッホに関して見るならば、たとえば、Theo van Gogh: Marchand de tableaux, collectionneur, frère de Vinent, exhib.cat., Van Gogh Museum, Amsterdam / Musée d'Orsay, Paris, 1999-2000 (english version: Theo van Gogh: Art dealer, collector and brother of Vincent, Amsterdam / Zwolle, 1999) はそのような研究の重要な成果のひとつである。


註43:
Méditerranée: De Courbet à Matisse, exhib.cat., Galeries nationasles du Grand Palais, Paris, 2000 などを参照。


註44:
Cornelia Peres, "An Impressionist Concept of Painting Technique", in: A Closer Look: Technical and Art-Historical Studies on Works by Van Gogh and Gauguin (Cahier Vincent 3), Zwolle, 1991, Part II: Van Gogh's Triptych of Orchards in Blossom, pp.24-38.


註45:
同時に描かれた《イチイの老木》は、新しいものと古いものとの対比というテーマ性において、また、ジャポニスムを感じさせるその大胆な構図において、《種播く人》よりもゴーギャンの意に沿うものとなっている。


註46:
ゴッホの制作法の「現代性」については、決まり文句になっているフォーヴィスムや表現主義への影響とは別に、印象派との関わりの中で、リチャード・ブレッテルが、新たな視点を提示している(Richard R.Brettel, Impression: Painting Quickly in France, 1860-1890, exhib.cat.,NewHaven/ London, 2000, pp.223-232)。