さらに落款にも「芳月堂 正名奥村文角政信正筆」と、「正名」「正筆」の語をくどいほどに重ね用いているのである。 奥村政信という浮世絵師が、実は版元として営業面をも併せて担当し、とかく誇大な宣伝に走りがちな面のあることは先述の通りであり、多少割り引いて受け取らないととは思うものの、わずらわしい摸倣者の一群が横行して腹に据えかねている様子がよく伝わってくる文章であり、署名の仕方である。
 浮世絵は、顧客の主たる対象が、気まぐれで新しもの好きの江戸の町人であったから、流行の最先端を主導する一流の絵師の版画にどうしても愛好が集中しがちであった。今日の一流が明日も一流である保証はなく、人気絵師の交代はふつう短いインターバルで行われるのが常であった。政信はそうした中で異例の長期不倒記録を残した稀有(けう)の絵師であり、それだけに彼の作風をそっくり摸倣して江戸人の好尚にかない、パイのおすそわけを失敬しようとする輩(やから)が文字通り輩出したわけである。その状況を実際の作例で確認することは現在でも決して難しくない。
 たとえば、万月堂という作者名を入れた「両国涼見三幅対」(挿図1)を、政信の同タイトル、同形式の作例(挿図2)と比べてみると良い。あきれるほどの剽窃(ひようせつ)ぶりであり、政信の号の一つ芳月堂を真似た万月堂の署名の下に赤い瓢箪形の印まで押しているところなど、かなり悪質である。政信は別のところで、「赤き瓢箪目印」云々(うんぬん)と、自分が経営する奥村屋の商標を確かめて版画を買うよう再三注意しているのだが、それも逆手に取られて利用されてしまっているわけである。ちなみに、美濃紙(みのがみ)の一紙(いつし)を横に用いて細判(三〇強×一五センチメートル弱)の図を三丁掛(さんちようがけ)(三つの図を一枚の版木に彫って一遍に摺ったあと細判三枚に裁断すること。三図が切られずにそのまま残る例もある)するこの「三幅対もの」の形式も、政信の創案によるものと考えられている。

-歌麿の罵詈雑言-

 摸擬追随する亜流の絵師たちに迷惑したのは、奥村政信ばかりでは決してない。錦絵を誕生させてその抒情的な美人画により明和年間(一七六四~七二)の江戸を風靡した鈴木春信(?~一七七〇)は、その早すぎる晩年から急逝の直後に多くの摸擬的な作品が他の絵師によって出版されており、その全作品目録を作ろうとしている私の取捨の作業を容易ならぬものにさせている。天明年間(一七八一~八九)の美人画の雄、鳥居清長(きよなが)(一七五二~一八一五)には勝川春潮(しゆんちょう)(生没年不詳)というきわめて優秀な亜流(へんな言い方だが)が現れて、落款が入らない春画などではよほど注意しないと、作者が清長か春潮か見分けがつかないほどである。
 ところで、美人画といえば、というよりも浮世絵といえば、喜多川歌麿(?~一八〇六)を思い出す人も多いだろう。歌麿は浮世絵の華といっても過言ではなく、その盛期の寛政年間(一七八九~一八〇一)から文化三年に亡くなるまでの十数年は、他の美人画家を近づけないほどの絶大な人気で世に迎えられた。その歌麿が実際に版下絵を描いた錦絵は全部で二千図に及ぶと推定される由(ティモシー・クラーク、浅野秀剛「喜多川歌麿」展カタログ)だが、さらに加えて歌麿亜流の絵師たちの版画がそれと匹敵するほどの数、版行されたはずである。そのわずらわしさ、いまいましさを、これもまた自負の念あつく、向こうっ気の強い江戸っ子(出生地には諸説あるが少なくとも幼少からの江戸育ち)歌麿は、次のように口汚く罵(ののし)っている。これと比べれば先の政信の口上や署名も随分とトーンが低かったものだと、かえってゆかしくさえ感じられるほどである。


夫(そ)れ吾妻(あづま)にしき絵は江都(こうと)の名産なり。然(しか)るを近世こ(木)の葉画師(えし)専ら蟻のごとくに出生し、只(ただ)紅、藍の光沢をたのみに怪敷(あやしき)形を写して、異国迄(まで)も其(その)恥を伝(つたう)る事の嘆かはしく、美人画の実意を書(かき)て世のこの葉どもに与(あたう)ることしかり(歌麿画「錦織歌麿形新模様・文読み」)

 それにしても、「木の葉画師」とか「蟻の如くに出生」とか、言いたい放題の罵詈雑言(ばりぞうごん)は、それだけの実情が背景としてあったからで、浮世絵師の「人気絵師に右へならえ」という悪しき風潮は絶えずはびこり、守られ続けたと見て良い。それもこれも浮世絵が、不特定多数の顧客の人気に頼る大衆相手の商品としての絵であり、現代の空気をいっぱいに盛った「生(なま)もの」の魅力こそが生命であったからで、ひとりよがりの癖の強い作風はなかなか評価されにくい世界だったのである。

-鬼才写楽の出現-

 しかしながら一方では、強烈な個性が時代の寵児(ちようじ)の座をあっという間に奪い取ってしまう「浮世絵ドリーム」もしばしば実現した。人気は魔物であり、予期しがたい新星の登場に、時代の空気がたちまち一変することもあった。
 たとえば、寛政六年(一七九四)五月の江戸三座の歌舞伎狂言に取材した役者絵を一挙に二十八枚、それも大判(約三八×二六センチメートル)の雲母摺(きらずり)(背地に雲母(うんも)の粉を引いて加飾した豪華な錦絵)で発表した東洲斎写楽(生没年ほか伝歴不詳)は、それまで浮世絵の世界では全く活躍の形跡のない、正真正銘の新人であった(挿図3-70~73)。それからの正味わずか十ヵ月の間に現在分かっているだけでも百四十数点の役者絵と相撲絵を制作し、翌寛政七年の正月には早くも浮世絵界から永久に離れていってしまった、正に彗星のような浮世絵師であった。

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挿図1
挿図2