鬼才の版元蔦屋重三郎(つたやじゆうざぶろう)(一七五〇~九七)が、美人画の歌麿に続いて役者絵の分野に送り出したこの無名の新人は、「歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画(えが)かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」(『浮世絵類考』)という大田南畝(なんぼ)(蜀山人)の言葉を誤解して終始人気がなかったように思われがちだが、そのようなはずはない。事実、周囲の画家たち、歌麿や歌川豊国(一七六九〜一八二五)、栄松斎長喜(ちようき)など、一流の人々に少なくとも一時期かなり深刻な影響を与えており、その特異な似顔(にがお)表現は既存のプロたちにも衝撃的だったのである。一般の浮世絵愛好家たちにも歓迎されたことは、短期間にもかかわらず刊行された作品数の多い点や、現存する写楽版画が世界中に散在してはいるものの総量として意外な数量にのぼる点などからも、容易に推察されるのである。
 あまりにも鮮烈なデビューと、あっけない退場の仕方とが、写楽の正体を誰か同時代の有名人の仮の姿かと疑わせ、謎めいた扱いをされるのが常だが、少なくともその役者絵の作風は、江戸の浮世絵界の伝統をおとなしく忠実に守り、わずかに修正して展開したという類のものでないことだけは確かである。浮世絵の役者絵といえば、それまでは鳥居派か勝川派かに独占されていたものだが、両派のいずれかのスタイルから素直に出てきたものでは決して無かった。
 その辺りの事情は、数少ない写楽関係の文献資料「倭画巧名尽(やまとえしのなづくし)」(式亭三馬『稗史億説年代記(くさぞうしこじつけねんだいき)』、享和二年・一八〇二刊)に示された浮世絵師の名寄せによる日本地図(挿図1-3)を見てもうかがい知ることができる。出身の流派が近い絵師たちを寄せ合って本州や近隣陸地ないしは半島や島を形成しているが、写楽は歌麿や葛飾北斎(一七六〇~一八四九)などと共にわずかな例外の一人として、それらと離れた孤島の扱いになっている。わけ知りの式亭三馬によるほぼ同時代の証言だけに、写楽にはどうやら浮世絵界に特定の師弟関係でつながる人がいなかったようなのである。私個人の見解を問われるならば、幕末明治初年の町の考証家、斎藤月岑(げつしん)が残した「俗称斎藤十郎兵衛。居 江戸八丁堀に住す。阿波(あわ)侯の能役者なり」(『増補浮世絵類考』)という説が、現在までのところやはりもっとも魅力的であり、合理的に解釈できるかと思っている。俗称の「斎藤十」までを当時の濁音をとった表記によれば「さいとうしふ」、これを順を変えて「とうしふさい」、東洲斎の「とうしうさい」と音通していく。言葉遊びの好きな江戸時代人が変身の斎号を選ぶに際して、本名をいじくったと考えたがいかがだろう。
 もしそうだとすると、斎藤十郎兵衛の過去帳が最近発見されたため、写楽の生没年は、一七六三〜一八二〇年ということになる。衝撃的なデビューは数え年三十二歳の時となり、分別盛りの画家の姿が浮かび上がってくる。
 旗本(鳥文斎栄之(えいし)ほか)や御家人(歌川〔安藤〕広重ほか)という将軍直参(じきさん)の武士から浮世絵師になった人もいるように、大名お抱えの能役者が格違いの歌舞伎役者の姿絵に筆をとったとしてもそれほどおかしくない時代が、十八世紀の世紀末になればすでに到来していたのである。ではあるが、周囲の目はなお厳しく、浮世絵師の仲間入りをしていると分かれば、ただでは済まされなかったろう。実働一年たらずでの突然の退場(あるいは作風が急に低調になる後半の写楽も松木寛氏が説くように少くともその一部は別人による代役であったかも知れない)は、上役からのおとがめによるものであったようだ。十返舎一九(じつぺんしやいつく)が自作の黄表紙(きびようし)『初登山手習方帖(しよとうざんざんてならいじよう)』(寛政八年・一七九六刊)の中で、写楽の描く凧絵(たこえ)の団十郎(五代目、当時は市川蝦蔵(えびぞう))に次のようなセリフを言わせているのが気にかかる。「なんの事はねへ。こんぴらさまへはいつたどろぼうがかなしばりといふもんだ」。凧の糸がまるで窓の格子のように見え、自由を失った写楽の状況を暗に伝えているかのようである。

-師弟関係の稀薄-

 写楽という画家は、不思議といつの間にか人を昂揚した気分にさせてしまうもので、つい予定をこえて紙数を費やしてしまった。要は、過去に浮世絵の伝統とか作風とか、約束の技法とかに無縁であっても、すぐに立派な浮世絵師になれるということが言いたかったのである。短期間に作家生命を失って消えて行った絵師は、写楽のほかにも程度の差こそあれ何人もいるのだから、その絵師としての短命を必要以上に誇張することも無いのである。有力な師をもつとか大きな流派に属することが、デビューが容易になるとかの些細(ささい)な優位以上に出るものではないのが、浮世絵の世界の良いところだったといえよう。 したがって、絵師たちはいつまでも師匠の作風にしばられる必要もなく、先に触れたように鳥居清長のそっくりさん(勝川春潮)が勝川春章(しゆんしよう)(一七二六~九二)の門人であったり、同じ春章門から鬼子のような葛飾北斎(初名勝川春朗(しゆんろう))が出ていても、別段異とするには当たらないのであった。
 このような流派性がきわめて稀薄な浮世絵界の環境は、前近代の日本美術の歴史にあっては、はなはだ珍しいことであった。狩野(かのう)派や土佐派といった官画派は、室町時代から明治年間まで数世紀にわたって流派生命を維持しつづけたし、在野の英(はなぶさ)派や円山(まるやま)・四条派なども師匠から弟子へ、弟子から孫弟子へと、その流派が御家芸とする作風を律儀に守っている。しかも、流派の中枢部分は血統までもが連続するようにと、美術の系譜が世俗の家系と同調(シンクロ)しつつ固有の歴史を作っていったものである。
 それに引きかえて浮世絵師の身のなんと気軽で自由だったことだろう。明日を保証されることがない代わりに、過去にしばられる必要もなかったのである。流派として長い生命を得られたのは、因襲的な約束事が多い芝居関係の絵を専門とした鳥居派(この流派のみは例外として家系により継承され現代の当主清光氏は九代目)と、マスコミ文化が高度に発達した幕末期に効率的なプロダクション化を図った歌川派とがあるだけで、あとはおおむね、有力画家を中心軸としてその周辺に形成される小流派が、ようやく一、二代存続する程度のものであった。

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