肉筆画よりも版画

-仕込絵の量産-

 絵画には、注文画と仕込絵(しこみえ)という、制作のあり方を異にした二つの種類がある。
注文画の方は、昔からふつうに行われてきたもので、宗教画であれば寺社や信者から、物語絵鑑賞のための絵巻物なら貴族やその婦女子から、城郭の建築内部を装飾する障壁画なら武将からと、特定の注文があり、彼らの指示に従って御用を受けた画家が制作にあたるというものである。
 一方の仕込絵という言葉はあまり聞き慣れないかもしれない。料理屋などで店を開く前にあらかじめ料理の準備をしておくことを「仕込む」というが、それと同じように、不特定の客の求めに備えて注文なしに制作しておく、商品としての絵のことである。出来合いの絵、既製品(レデイ・メイド)の絵といってもよい。
 このような仕込絵が可能になるには、当然のことながら、絵画を鑑賞する楽しみが一部の貴族階級の独占から解放され、広く庶民層にまで許されるような時代を迎えなくてはならない。そのような条件が整い、仕込絵を描いて世を渡る町絵師の存在が目立ってくるのは、庶民階級が台頭してくる中世末期からである。そして、安土桃山時代を経由して江戸時代に入った十七世紀ともなれば、京や大坂、そして江戸などの大都市に庶民の絵画需要をまかなう町絵師の活動がとりわけ目立ってくるのである。
 たとえば江戸時代の初頭に京都で活躍した俵屋宗達もそうした町絵師の内の有力な一人であった。彼が門下の徒弟画工とともに量産した扇面画や水墨画は都で評判となり、ことに前者の扇絵については、当時の小説(仮名草子)の中で有名ブランドの一つとして特筆されている。

扇は都俵屋が、源氏の夕顔の巻、絵具(えぐ)をあかせて書きたりけり(『竹斎(ちくさい)』)

 商品としての仕込絵は、多くの人の共感を呼ぶに値する魅力をもつことが必須であること、いうまでもない。時代の空気、時代の美意識を反映した生新な表現がなされていなければならない。そうして大量に売れれば単価を安くすることができ、廉価で良質であればますます好評を博するという好循環をもたらす。
 仕込絵としての成功の条件は、大量生産による廉価販売であること、他の商品の場合と同様である。その大量生産の要請に応えるために、絵屋の主宰者による原画を徒弟たちが摸写的に描く工房制作(プロダクション)が効率的に行われたものであった。それは宗達の俵屋ばかりでなく、浮世絵の前身ともなる風俗画を得意とした町絵師たちの間でも、同様に実行されていたのである。ほとんど図柄を同じくして明らかに筆者が異なる複数の作例を、屏風画(びようぶが)であれ、掛軸画であれ、それと指摘することは容易だ。
 現代の漫画家たちのプロダクションでは、一人の先生の作品を完成させるために多くの助手たちの技術が提供されているようだが、かつての町絵師たちの工房制作は、原図を同じくする同工異曲の作品を多数作り上げるという方法のものであった。同じように主人の腕(筆)になり代わった代役でも、完成までの過程の一部を多くの助手の一人として助けるのと、完成作品を一人一人の徒弟が責任をもって仕上げるのとの違いが、そこにはある。後者の場合、多少出来栄えの悪い代作であったとしても、工房の主宰者の(俵屋なら宗達の)署名や印章が堂々と画面に明示され、平然と世に送り出されたものであった。

-絵筆をもつ〝千手観音〟-

 仕込絵としての肉筆画を前近代的なシステムによってより多く量産するには、代役としての腕の数、すなわち助手の人数を増やさなければならない。墨や絵具などの用意をする見習いの少年などはその数に入らず、町絵師の工房で主宰者の代役たるにふさわしい徒弟画工を何人ほど置くことが可能だったかと、常識を働かせて考えてみると、十人を超えるほどの規模は到底難しかろうと推定されてくる。暇な折に、あの俵屋宗達の下に何人ほどの弟子がいたかと考えるのはとても楽しいことだが、将軍や大名に抱えられた狩野派の画家たちと違って、町絵師風情の彼らがそれほど大勢の有能な技術者を身近に養うことができたとはどうしても思われない。
 元禄から正徳にかけての一時期(十八世紀初め)、肉筆画の立美人図を量産して、江戸中の評判をとった浮世絵師の一団があった。懐月堂安度(かいげつどうあんど)(生没年不詳。ただし近年俳人志村常仙と同一人であるとし、一六七七〜一七五二年の生没年が一説として提出されている。門脇むつみ「懐月堂派と俳諧に関する一試論」〔『浮世絵芸術』一四五号、二〇〇三年一月〕参照)という主人の指揮の下、いかにも元禄好みの豊満な女性が原色的色彩による大柄な花模様の着衣に身を飾り、背景もない画面いっぱいにポーズをとって立つだけの、きわめて類型性の高い美人画が大量に作られた(カラー図版10-11)。それらには多く、屋号の懐月堂ないしはそこの主人の懐月堂安度の署名が入れられ、仕込絵として提供されたが、時には門弟たち自身の署名を入れることが許されたこともあった。その場合でも署名の下方に押される印章は「安度」とあることがほとんどであり、あくまでも工房作家の一人であることが強調されている。徹底した類型化による肉筆画の効率的な量産が意識的に進められたという点で、いわゆる懐月堂美人の盛行が注目されるのだが、一方で影武者となって働いた徒弟画工の自分の名を署名した作品が伝存することによって、この工房の規模がほぼ確認できるのも有りがたい。すなわち師匠格の安度の下に、おそらくは跡取りかと思われる安知のほか、度繁、度辰、度秀、度種の、併せて五人の門弟がいたことが分かっている。ここから類推して宗達の俵屋工房も、せいぜいそれ位か、多くてもあと、二、三人というところだったのではないだろうか。

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