-車の両輪-

 荒々しく粗野ではあるけれども明快率直を好む江戸の人々にとって、版木に彫刻刀で刻み出した線の歯切れの良さは、好ましく目に映ったはずである。彫り残された凸版の線や面が摺り出す墨一色の絵柄は、余白として残された和紙の白さと明確な対比を生み、白と黒のめりはりがくっきりと利いていさぎよいものであるからだ。版本の挿絵や初期版画の墨摺絵(すみずりえ)は、モノクロームの単純さの内にかえって木版画本来の美質を端的に示すところがあった。
 やがて多色摺の版画、錦絵が誕生して以降は、明確な墨の輪郭線の区画の内に、それぞれ純粋な色面がきっかりとはめ込まれ、やはり明快な色彩表現が楽しまれた。重ね摺りやぼかし摺りの技法もあることはあったが、原則的には混色や色の諧調(グラデーション)に頼らず、平明な色面の布置構成が効果的に活かされた錦絵は、筆の微妙な働きに頼る肉筆画とは明らかに異質な美しさを演出することができた。
浮世絵は、その歴史の全期間を通じて、まぎれもなく版画こそが主流であり続け、筆によって一点ずつ制作する絵画本来のあり方の肉筆画の方が、むしろ傍流に位置づけられることとなった。肉筆画より版画を主とする変則的なあり方が可能になったのは新興都市江戸ならばこそといえ、京、大坂の上方ではあり得ないことであった。
 しかしながら、懐月堂安度や宮川長春のように徒弟画工を使って仕込絵を量産する肉筆専門の絵師もいて、一点制作のこくを愛する需要者の期待に応える方途もまた別に開かれていた。十八世紀前半までの浮世絵前期にとくにめざましかったが、中期以降も宮川派の肉筆画の伝統を引く勝川派、葛飾派など、版画制作のかたわら仕込絵としての肉筆画にも熱心に対応していたふしがある。さらに喜多川歌麿のように版画方面で顕著な活躍を見せた有名な画家に、特別注文の肉筆画を依頼する顧客も少なくなかった(カラー図版52)。
 ともあれ浮世絵は、版画と肉筆画という両輪を得て総体がいきいきと躍動する構造をもっていたのであり、どちらが欠けても満たされないところが残った。版画の名手による肉筆画はいうまでもなく別種の見応えを提供してくれるが、一方で肉筆画専門の画家の例外的に残した版画、たとえば懐月堂派の門人たちの墨摺絵や丹絵も、颯爽として快い美感を生んでおり、魅力的である。

漢画よりも大和絵

-「大和絵師」を自称-

錦絵の創始者で、抒情的な美人風俗画によって一世を風靡した鈴木春信は、人気絵師としての声価が定まる以前のデビュー当時は、むしろ役者絵を主に発表していた。五代目市村羽左衛門や二代目瀬川菊之丞の舞台姿が多いが、とくに江戸根生(ねお)い(王子村の農家の子だが)の女形(おんながた)役者として人気を集めた菊之丞(王子路考)については、楚々とした姿態の美しさや演技上の挙措のなまめかしさが後年のいわゆる春信美人を生み出す原型として参照されたふしもあり、姿絵を描いた細判紅摺絵による何点かは彼の画業にとって記念的な意義をもっていたはずである。 それであるのに、全盛の美人画家として飛ぶ鳥を落とす勢いのあった晩年は、次のように公言してはばからなかったようである。

我は大和絵師也、何ぞ河原者の形を画くに耐へんや

と。こうした春信の言葉を耳にして記憶にとどめていたのは、青年期に春信の挿絵を得て『小説小売飴土平伝(あめうりどへいでん)』(明和六年〔一七六九〕四月の風来山人こと平賀源内の序および春信の挿絵を付す)を発表し、戯作界(げさくかい)にデビューした舳羅(ちくら)山人こと後の大田南畝(一七四九~一八二三)であった。町人階層の浮世絵師が「我は大和絵師也」と誇らしげに語るその僭越ぶりが、将軍直参の御家人である武士の南畝に格別印象深かったのだろうと思われる。 そういえば、浮世絵草創の頃から春信の頃までの前期にあっては、菱川師宣も、宮川長春も、また奥村政信も、「日本絵師」「大和絵師」などと、ことさらに日本とか、大和とかの冠称をつけて署名する絵師が多く目立つ。そのようにあえて僭称してはばからなかった彼らの意識は、どの辺りにあったのだろうか。

-本絵と浮世絵-

奥村政信の絵本『風雅七小町琴棋書画』に見える「四能 画 江戸絵 菱川」と表題された見開き二ページの挿絵は、菱川師宣の孫娘でおさんという少女の作画の様子を描くものだが、その図の右方に書き込まれた説明の文章が興味深い。 それによれば、いわゆる本絵(ほんえ)は、昔風の人物や仙人などを墨絵で描くものだが、一方の浮世絵は浮世の風を描き、しかも日本の人の姿を描くものだから、日本絵とも称される、さらに日本とは大和のことだから大和絵ともいわれるわけだ、というのである。 本絵とは、狩野派や土佐派など伝統的な絵画流派による古典的で正統的な絵、本来的な絵、くだけて言うなら本物の絵ということになる。それと対極をなすのが町絵、それもとりわけ浮世絵なのであって、本絵の画家先生にとってみれば絵のうちにもいれたくない浮世絵の画工風情が、大和絵師を僭称するなどとはもってのほかということになる。事実、幕末の狩野派の実態を報告した明治期の日本画の巨匠橋本雅邦の証言(「木挽町画所(こびきちようえどころ)」『國華』三号 明治二十二年〔一八八九〕十二月)によれば、彼の所属する木挽町狩野家の画塾では、浮世絵師との交際は厳禁されていたといい、文字通り歯牙にもかけられなかったのが実態であった。 にもかかわらず浮世絵師が掲げた大和絵という旗印は、将軍家お膝元の江戸にあり、その御用絵師狩野派の巨大な影にいつもおおいかぶさられていた浮世絵師たちにとって、蟷螂(とうろう)の斧(おの)にも似た「錦の御旗」であったのだ。

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