-大和絵と漢画-

 大和絵という用語は、使われた時期によって意味が異なるが、ここでは、平安時代に唐代絵画を和様化して得た日本的な絵画様式に由来しその伝統につながる絵画の総称、というほどに理解しておきたい。江戸時代にあっては、そうした大和絵の正統を守り伝える家として京都に宮廷画家の土佐派があったが、その存在は浮世絵師たちにとって遠く、分派の住吉派が将軍の御用絵師として江戸にあったが、その一般への影響力は微弱で、浮世絵師たちに脅威を感じさせるほどの重みをもたなかった。
 大和絵に対する絵画の流れとしては、鎌倉時代から室町時代にかけて宋(そう)・元(げん)代の新しい中国絵画、とりわけ水墨画を学習し、その日本化に努めた漢画があった。大和絵が唐代絵画を消化した第一段の日本画であるとすれば、漢画は次代の中国画に影響された第二段の日本画であった。
 日本の美術は、古来常に外からの強大な美術の洗礼を受けて急激に変貌してしまう他律的なところがあった。江戸時代にはさらに明(みん)・清(しん)代の中国絵画が紹介されて、文人画や写生画の新たな漢画(唐画、唐絵)が発生したし、ヨーロッパ絵画の導入を試みた洋風画(蘭画、紅毛画)も一部にひろまっている。外国絵画からの影響下に起こった第三段の日本絵画は、そのように洋の東西に分かれて複雑な様相を示したが、明治以降の近代に入ると、ヨーロッパ絵画との本格的な対応が明らかとなり、それまでの第一段から第三段までの大和絵、漢画、江戸時代の唐画(文人画・写生画)の流れをすべてひっくるめて日本画としてくくり、西洋風絵画という意味での洋画と明らかに区別することとなった。いうならば近・現代の洋画は、外国絵画を日本人としていかに受けとめるかという古代から変わらない課題に応じつつある第四段の日本絵画ということになるのだろう。
 話が大きくひろがってしまったが、別に筋道を逸らしたわけではない。浮世絵が選択した大和絵とは、日本でもっとも古い層の絵画様式であり、その上に第二、第三の新しい絵画様式が積層して日本絵画の歴史が形成されているということを、改めて確認しておきたかっただけである。
 江戸の町人たちにとって重苦しく、うっとうしいものに感じられた武家の御用絵師集団狩野派の絵は、正に中世以来の〝法灯〟を守り継ぐ正統そのものであり、武家の時代であった当時、本絵と呼ばれるにふさわしいものであった。奥村政信は先の絵本の挿絵の説明文に「本絵は古人、仙人、墨絵を本(もと)と遊(あそば)す」と敬語を使っているほどであり、町絵師としての分際を守らざるを得ないそうした文章表現に、浮世絵師の地位の低さが垣間見られるのである。
 その重い雨雲のように時代をおおう本絵の狩野派と対抗するためには、それより古層の絵画伝統である大和絵の系譜へとつながる必要があった。初期の浮世絵師たちが自分たちを日本絵師、大和絵師と呼んで誇ったその背後には、同情し共感できる歴史的な事情があったわけである。武家文化よりも公家文化を慕いがちな江戸の町の庶民層にとって、平安・鎌倉の王朝が育て、現に京都では宮廷(きゆうてい)絵所(えどころ)の預(あずかり)(長官)職にある土佐派が家元格として保守する由緒正しい絵画大和絵は、拠って立つにふさわしい絵画様式だったわけである。

-武家文化への対応意識-

 将軍や大名、旗本に愛好され、武家式正(しきしよう)の絵画として公認されたのは、室町後期以来の系譜をつなぐ狩野派の絵画であった。
 狩野派は、始祖正信(一四三四~一五三〇)が足利義政の東山山荘に障壁画を描くなど幕府関係の画事御用を務めることから、流派としての歴史を興している。以来、足利幕府、織豊政権、そして徳川幕府と、権力の交代が目まぐるしく変わる激動の時期にも時の権力者の愛顧を失うことなく、常に画壇の長者としての地位を守り続けることに成功した。時に有力町衆や宮廷関係にも支持層を広げることはあったが、本来的には武家に奉仕する御用画家として自他共に認めるところがあった。
 狩野正信は周文(しゆうぶん)から宗湛(そうたん)へと続く室町期漢画界の主流の画系から出ており、その様式の源流とするところはいわゆる宋元画にあった。水墨画を主体とする宋・元代の中国画を古典として尊重する姿勢は、その後のこの派の一貫して守るところであったが、正信の子狩野元信(一四七六〜一五五九)の代に新たに大和絵学習を加え、和漢融合の折衷様式を採用することも併行して行われるようになった。さらに元信の曾孫狩野探幽(一六〇二〜七四)は、元和三年(一六一七)数え年十六歳の若さで、徳川幕府の御用絵師となってから、文治の理念を掲げた新政権にふさわしい温雅で格式高い画風に家法を一変させていく。この探幽以降のいわゆる江戸狩野様式は、漢画の和様化を極端なまでに進めたとして、後世の文人画家による評価はむしろ「和画」の一様態とするまでになる(中林竹洞『画道金剛杵』)が、そもそも源泉として学んだ宋・元代中国画という規範を引き下ろしたというわけでもなかった。変質を加えたとはいいながらも、漢画、水墨画が基調として据えられていることに変わりはなく、大和絵描法の利用はやはりなお副次的なものにとどまっていた。
 武家式正の能楽に対して絢爛たる舞踊と平俗的な演劇の歌舞伎を育てたのと同じように、漢画系統の武家の本絵に対して江戸の町人は、大和絵伝統につなげつつ素顔と本音の絵画表現を可能とする浮世絵を繁栄させていく。
 ところで、誤解のないように指摘しておく必要があると思われるのは、多くの浮世絵師が画歴の初期の学習段階では狩野派の骨格正しい描法を習得しているという事実である。師宣にせよ、長春にせよ、春信や礒田湖龍斎(いそだこりゆうさい)、歌麿や栄之、あの北斎にいたるまで、狩野派の手ほどきを受けた形跡を明瞭に画面に表している有力絵師は、決して少なくない。アカデミズムとしての狩野派の功罪についてはかつて別に論じたことがある(「アカデミズムの功罪──江戸時代狩野派の場合」『季刊藝術』三三号 昭和五十年)が、和漢の絵画伝統を集積してその精髄を修得させようとする教育機関としての狩野派の貢献は、決して過小評価すべきでない。
 浮世絵にとっては大きな厚い壁であった狩野派が、保守的で、権威的で、時代の空気と離れてよそよそしく空疎な絵ばかりを描いている内は、浮世絵師にとって揶揄の対象であり、反面教師としてもまた有益で有りがたい存在であった。頑固な親父であればあるほど、権威を笠にきて古くさい学説を掲げて居直る教師であればなおいっそう、子や弟子の反発の力もいや増そうというわけだ。浮世絵界にとってみれば、江戸時代の後期になって現れてくる物分かりの良い狩野派の画家、たとえば気の利いた風俗画を描いた狩野章信(猿屋町(さるやちよう)狩野家の当主で将軍家の表絵師(おもてえし)、一七六三~一八二六)のような存在は、かえって毒にも薬にもならなかったはずである。逆説的にいうならば、大方の狩野派の因循姑息、保守頑迷が、浮世絵の潑剌とした生新さや華やかさ、官能性といったもろもろの美質を際立たせ、励まし育てたわけである。

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