絶え間ない新風の導入

-旺盛な雑食-

 米国ロサンジェルスの郊外、コロナ・デル・マールの海沿いの崖の上に、戯れにマッシュルームと呼ばれる鉄骨木造の変わった建物が立っている。週末などは、遠くからわざわざ車でやってきた見物客が、きのこのように波打つ不定形の屋根におおわれたその奇想のデザインにあんぐりと口をあけているのを、よく見かけることができる。その家の主人ジョウ・D・プライス氏は、住む家の趣味とも一脈通うところがあるように、伊藤若冲(じやくちゆう)や曾我蕭白(しようはく)、長沢蘆雪(ろせつ)など辻惟雄氏のいわゆる「奇想の系譜」に属する江戸時代の画家たちの絵を好んで収集している。プライス氏は日本語を解さず、もちろん落款も読めないので、絵を買う時の判断はもっぱらその作品の質の高さのみに頼っている。日本人のように画家の名前やそれが得意とする主題かどうかなど余計な先入観にとらわれることがないから、その全米でも有数の日本絵画コレクション(若冲の号をとって心遠館コレクションという)には、私たち日本美術史の専門家の目にも意外に思われるような異色の作品が、少なからず加えられているのである。お近づきになってからかれこれ四十年にもなるが、その間幾度となく訪れたそのたびに新しい発見があり、刺戟を与えてもらえるのは、この稀有といってよい碧眼の目利きのお蔭である。
 最近訪れて拝見した画帖も、思いがけない内容のもので、目を洗われるような新鮮な鑑賞体験を味わわせてもらった。
 それは全十四図の一冊の画帖で、表紙の題簽(だいせん)によればもと稲葉子爵家に旧蔵されていたものであった。菱川師宣筆との伝承が付いていたが、それぞれの画面はもとより画帖やそれを収納する箱のどこにも作者の署名や印章がない。しかも、たしかに画中の人物描写を見ると師宣風とおぼしきところがあるのだが、浮世絵風の図様は一図もなく、広い意味で花鳥画が大部分(全十四図の内九図)で、一部に伊勢物語を原典とした物語絵(五図)が混ざっている程度である(カラー図版3)。土佐派系の大和絵風が強く意識され、金泥(きんでい)の細密な描線も加わった謹直で精彩な描写は、日頃師宣の肉筆風俗画や版本の挿絵で見せる簡潔明瞭な描法と離れることいちじるしいものがあるのである。おそらくは大名や旗本など高貴な身分の武家から直接の作画依頼を受け、その趣味や美意識に合わせた雅(みやび)な雑画(さまざまな主題を描き分けて集めた絵)の画帖を特別に制作したものであるのだろう。落款を入れなかったのは浮世絵師としての身分をはばかったためと思われる。ちなみに師宣の会心の作には、東京国立博物館の「歌舞伎図(中村座内外図)屏風」(カラー図版6)や静嘉堂文庫美術館の「月次(つきなみ)風俗図巻」のように、かえって無款であることが多いのは、それらがいずれも注文画であった可能性が高いと、私は推定している。吉原風俗図を描いた師宣による最大最長の肉筆絵巻(旧萬野美術館本、現ウェーバー・コレクション)は、巻末に署名と印が備わっているがそれらは後入れと鑑識され、この名作も本来は無款であったと考えられる。  浮世絵師の元祖菱川師宣は、人物を中心とする風俗描写を得意としたばかりでなく、『余景作り庭の図』(延宝八年・一六八〇刊)や『岩木絵づくし』(天和二年・一六八二刊)などの版本でも風景や花木の描写に狩野風を用いるなど、主題や様式の幅の広さが従来も注目されていた。それにもかかわらず、プライス氏が先入観なしに入手した師宣の画帖は本格的な土佐派の画風による花鳥画や物語絵から成っており、改めてその旺盛な雑食性とたくましい消化力に感じ入らされたのであった。
 後期には、「雑食の画家」の典型ともいう『北斎漫画』全十五冊の作者葛飾北斎も出現しているように、広範囲の主題を多様な画風で表現しようとする意欲の強さ、本絵の側の立場からいえば無節操ともいうべき諸派、諸流の学習とそれらの折衷こそ、浮世絵師ならではこその活性と評価されるのである。

-西洋画法導入の窓口-

 浮世絵が西洋近代の画家たちに甚大な影響を与えた契機については後述するが(第一章の四参照)、彼らの愛好が浮世絵に寄せられるための下準備がすでに早くなされていたことを指摘しておくべきだろう。すなわち浮世絵師は、新しい時代の動向に常に新鮮に反応するべく要求されていたため、日本の画家としては西洋画法の導入をもっとも早期に試していたのである。
 十七世紀にヨーロッパで流行した眼鏡絵という娯楽のための絵画が、中国を経由して、十八世紀の初めに日本にも舶来した。反射鏡と凸レンズを組み合わせた覗きからくりや、凸レンズだけの覗き眼鏡を通して、野外の風景画や室内図から虚構の空間の奥深さを味わい楽しむためのこの眼鏡絵というものは、透視図法が誇張して用いられ、見るものに新奇な視覚体験を提供して一時期大いに喜ばれた。とくに中国や日本など東洋の異文化圏では、西洋の合理的な科学、ひいては文明そのものを文字通り覗き見る玩具的絵画として流行したのであった。

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