長崎から入ってきた眼鏡絵にはヨーロッパ製のものもあったが多くは中国製(挿図4)のものであったようで、それらに刺戟されて見よう見まねの眼鏡絵もどきを作り、広く人々に透視遠近法という西洋由来の画法を紹介したのは、浮世絵師奥村政信であり、一七三〇、四〇年代のことである。歌舞伎の劇場図を主として、ほかに茶屋などの座敷の室内風景(挿図5)、あるいは花時の上野の野外図などにまで取材の対象は広がっていき、折から実証主義的な機運が高まってきた江戸の町の人々に歓迎されたのであった。
 物みなが浮き出して見えてくるこの目新しい風景画には「浮絵」という名が命名されたが、逆に奥行きが深くくぼんで見えるという面を強調して「くぼみ絵」とも呼ばれることがあった。版画ばかりでなく肉筆画の作例も多く残っており、一時期いかに流行の熱気がすさまじかったかを想像させてくれる。
 政信ら江戸の浮世絵師による西洋画法への積極的な接近と学習の試みは、京都における円山応挙の眼鏡絵(一七五〇〜六〇年代)、江戸での平賀源内による油絵(一七六〇年代)、司馬江漢による銅版画の摸作(一七八〇年代)のいずれにも先行する快挙であった。その後を受けた明和年間以降の歌川豊春(一七三五~一八一四)によって主導された第二期の浮絵により、浮世絵の風景描写はより自然景観に近い実感的なものへと進展していった。
 一八三〇年代以降北斎や広重(一七九七~一八五八)によって競作された浮世絵風景画が、そうした先人たちの成果を受けて遠近の深みや広がりばかりでなく、四時の変化と朝夕の時刻、あるいは風雨陰晴の気象の変化までも表現していったからこそ、十九世紀後半のヨーロッパの人々にも理解が容易であったのかと思われる。欧米のほとんど全地域を巻き込んだジャポニスムの熱狂や、印象派以降の西洋近代の画家たちによる浮世絵学習のそもそもの種火は、すでにそれより一世紀以上も前に江戸の浮世絵師がおこした西洋画法の摂取、すなわち浮絵の大流行によって用意されていたのであった。

庶民にとっての浮世絵

-絵草紙屋の店頭-

 「築地明石町」(昭和二年・一九二七作、挿図1-27)という清楚ですがすがしい近代美人画の名作を残した鏑木清方(かぶらききよかた)(一八七八~一九七二)は、いまだ江戸の面影が残る明治半ばの少年の頃を回想して、次のように記している。

明治時代に東京で少年の時を送つた人達は、宵闇が迫る夏の空に、蝙蝠(こうもり)の飛び交ふ時分、絵草紙屋に吊るされた数々の美しい錦絵に見惚(みほ)れて、夜の遅くなるのも知らずに、我を忘れて立ち尽した昔の思ひ出を有(も)つであらう(『こしかたの記』)

  • 挿図6

 版元を兼ねた大店(おおだな)の絵草紙屋(挿図6)のほかにも、店売りだけの家なら「店並の揃つた町へ行けばいくらも見られた」といい、そこはまるで「町の展覧会とも云へ」、「子供が懐(なつかし)く美しいものへの憧憬をたやすく充たしてくれる恰好な楽園であつた」と、それこそなつかしく想い起こし、証言してくれるのであった。
 明治の中頃の東京下町の状況は、江戸の昔の様子とさほど変わらなかったに違いない。絵とか美術品とかというものと縁の遠い町の人にとって、浮世絵の版画や版本を商う絵草紙屋は、美しいものを身近かに、そして誰にも平等に提供してくれる気安い娯楽施設だったのである。
 その店内には、右から左へ何本も引き渡した細い綱に、竹串で挟んだ版画が吊り下げられており、その下の床(ゆか)には、いまだ吊るさない分の刷り立ての版画が、端を揃えてうずたかく積み上げられていた。その下の方にこそより良い絵がひそんでいるように思えて、いくら抜き出してみたところで、どこの絵草紙屋も嫌な顔を見せなかったそうだ。たとえ子供であっても、好みの錦絵を探して時の経つのを忘れることができたというのである。
 買う物が決まれば、二、三枚の版画をまとめてくるくるとほど良く巻いて、その上に店の名が刷ってある懸紙(かけがみ)をかけ、その上から正(まさ)(正目紙、すなわち錦絵や千代紙を刷るのに適した奉書紙)の裁ち落し(切れ端)を軽くまわして、指先でちょっと捻(ひね)って渡してくれたそうだ。その筒状の版画を手にしてわくわくと胸を躍らせて家へと駆け戻る少年清方の姿が目に浮かぶようである。
 そのようなわけで、浮世絵に幼児や少年向けの主題の絵が多いことも事実だが、江戸時代の子供をあなどってはいけない。後述するように(一五一、五二頁)、十二、三歳の男の子が草双紙の挿絵画家の評判ができる(式亭三馬『浮世風呂 二編』)ほど、おませだったからである。

<< 前のページへ 次のページへ >>
挿図4
挿図5