-浮世絵の値段-

 清方は、絵草紙屋にとって子供は大切なお得意(「又とない定得意」)で、大事にされたというが、浮世絵はそれほどに安い商品だったのだろうか。  大久保純一氏は「錦絵の値段」という興味深いコラム(至文堂版『浮世絵の鑑賞基礎知識』所収)で、山東京伝の黄表紙『荏土(えど)自慢名産杖(づえ)』に見出した興味深い文言を紹介している。

二八十六文でやくしやゑ二まい、二九の十八文でさうしが二さつ、四五の廿なら大にしき一まい

 この本が出版された文化二年(一八〇五)頃の相場として、細判の役者絵なら二枚で十六文、一枚なら八文、黄表紙などの草双紙なら二冊で十八文、一冊なら九文、大判の錦絵は二十文ということになる。かけそばが一杯で十六文という時代であるから、役者絵や玩具絵(おもちやえ)、千代紙などであれば十分に子供のお小遣いで買えたわけである。
 もっとも、彫りや摺りに手のこんだ上等な錦絵は、明和年間(一七六四~七二)の鈴木春信の中判(約二八×二一センチメートル)が一枚百六十文、万延元年(一八六〇)から売り出された三代歌川豊国(国貞)の大判役者大首絵シリーズで一枚百文前後と、破格の値がつくこともあった。
 そうした贅沢を禁止するために、幕府はしばしば値段を規制しようとした。水野忠邦の天保改革の折には、「一枚絵の儀、以来彩色七、八遍摺りを限り、一枚十六文以上の品、無用為(た)る可(べ)く候」(天保十三・一八四二年十一月)といった町触れを出して、価格の上限を一枚十六文に設定するよう命じているが、余り守られたようには思われない。六年後の嘉永元年(一八四八)に売り出された歌川国芳の三枚続「亀々妙々亀の遊」は六十文、同じく三枚続の「右大将源頼朝卿富士の牧狩之図」は七十二文であったとする『藤岡屋日記』の記事を大久保氏は紹介している。前者が一枚当り二十文、後者に至っては二十四文で、いずれの場合においても先の規制の十六文を上まわっているからである。
 標準的には大判錦絵が二十文ということになると、今の週刊誌とほぼ同じ程度であったということになろうか。そのようなわずかな出費を負担して、江戸の町の大人や子供がこぞって浮世絵を支え、育てていたのであった。

-「吾妻錦絵」の誇り-

 「江戸っ子」という言葉が初めて意識して使われるようになるのは、明和年間の頃のことらしい。西山松之助氏の研究によれば、文献上の初出は明和八年の川柳「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」であるという(西山松之助『〈江戸〉選書1 江戸ッ子』)。川柳の句意は、江戸っ子のくせにわらじをはく、下駄をはく、すなわち値段をごまかして上前をはねるとは、こいつ風上にもおけねえ、というところらしい。
 明和年間といえば、神田白壁(しらかべ)町(現在のJR神田駅の辺り)の家持ちで生粋(きつすい)の江戸っ子鈴木春信が、多色摺りの美しい木版画をはじめて実現させた当時である。この頃は田沼意次(おきつぐ)が幕府の実権を握っていたいわゆる田沼時代の真盛りで、江戸の町は経済的な好況に沸いていた。将軍のお膝元(ひざもと)で暮すというだけの空威張りに終らず、政治・経済の中心地にふさわしいインフラの整備(たとえば運河や堀川、道路、上水道など)、江戸が自前で育てた文化の成熟(草双紙の戯作や、俳句、川柳、狂歌、狂詩、歌舞伎、舞踊、音曲、美術工芸品など)といった、実質に裏付けられた地元への誇りを、ようやく江戸の町人たちがもてるようになったのである。
 このような、江戸の町の好環境を背景に一気に実現した浮世絵版画の本格的カラー化は、まさしく時宜を得たものと江戸っ子たちに熱烈に歓迎されたのであった。当時の熱狂的な歓迎ぶりは寝惚(ねぼけ)先生こと後の蜀山人(しよくさんじん)、大田南畝(なんぼ)が、十八、九歳の青年期に次のような一篇の狂詩によって、生々しく実況報告してくれている。

東(あづま)の錦絵(にしきえ)を詠ず
忽(たちま)ち吾妻(あづま)錦絵と移ってより
一枚の紅摺(べにずり)も沽(う)れざる時
  鳥居は何ぞ敢て春信に勝(かな)わん
男女(なんにょ)写し成す当世の姿(原文漢詩体)

 春信が「吾妻錦絵」を売り出すと同時にたちまちブームとなって、それまで人気の鳥居派の紅摺絵がまったく売れなくなってしまったというのだが、ここに報告されている「吾妻錦絵」の新語それ自体、考えてみればまことにみごとなネーミングというほかはない。

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