-商品としての品揃え-

 先にも述べたように、浮世絵師が絵を描いて生業(なりわい)とする仕事の内容には、大きく分けて、版本と版画、それに肉筆画の三態があった。
 その内の版本では、絵と文が同時進行の草双紙や数図が間に入る読本など小説類の挿絵本のほか、絵の鑑賞が主体で文章がその説明として付け加えられるか、ほとんど絵ばかりで成る各種の絵本、そして狂歌や俳句の選集に絵が挿入される絵入り本(絵入り狂歌本や絵俳書)の別がある。絵を好む読者は多様な楽しみが許されたのであった。
 これらの娯楽を旨とする庶民向けの版本は、地本(じほん)と呼ばれ、地本問屋が扱うところとなっていた。現代とは違って、一口に本屋といってもこの地本のみを商う店と、仏書や儒学書、医書や古典など堅い向きの本を専ら扱う店(書物問屋)とに分かれていた。地本とは、上方からの下り絵本に対して江戸の地で出版された本という意味であり、地本問屋は錦絵などの版画も版行し、同時に店頭で商っていたわけである。
 その版画の方は、単行の一枚絵ももとよりあったが、多くは揃物や続き絵など、複数の図を一組にして売られることが多かった。揃物とは、春信の「坐鋪(ざしき)八景」なら八枚、北斎の「冨嶽三十六景」なら初め三十六枚、さらに好評につき続編が十枚で合計四十六枚、広重の「東海道五拾三次」では振り出しの江戸日本橋と上りの京三条大橋に五十三の途中の宿駅の図を合わせて五十五枚で、それぞれ一セットとなるシリーズ物のことである。続き絵は、二枚続、三枚続、時には十枚以上も横に(ごく稀には縦に)画面を連ねて一続きの大きな構図を生み出す形式のものである。
 揃物は、版本から版画を独立させた草創の時期、菱川師宣の延宝(一六七三~八一)、元禄(一六八八~一七〇四)の昔より既にあった。当初は、本の原型を残して主題のまとまりを複数の版画で展開したもので、「吉原の躰」(東京国立博物館蔵)などのように十二枚一組が通例の形式であった。
 それが後年、とくに錦絵期に入ってからはとりわけ営業上の理由で揃物が歓迎され、同時に続き絵という新しい形式も好んで作られるようになったのである。
 一枚で売るよりも複数の版画をまとめて一単位とする方が有利なことは言うまでもない。現代でもスーパー・マーケットやコンビニエンス・ストアでは、よくこの手が使われており、私たち消費者がうかうかと乗じられているのと同じである。

-柱隠しの版画掛軸-

 浮世絵版画の判型の一つに、柱絵という、極端に細長い画面のものがある。縦が七〇センチメートルほどもあるのに、横が一二、三センチメートルしかないのだ。一枚の版画としてはぺらぺらとして扱いにくく、いったい昔の人はどのように鑑賞したのかと不思議に思われるだろうが、本来は簡略に表具(ひようぐ)をして掛軸に仕立て、売られていたものなのである。
 現在ではほとんどの柱絵が表具から外されて、台紙に貼られて保存されたり、鑑賞されているが、ヨーロッパの古くからのコレクションの中には、元のままの、うぶな仕立ての柱絵に出会うことができて、有りがたい。それらはみな、金襴(きんらん)や緞子(どんす)の裂地(きれじ)に似せて模様を刷った厚手の紙によって表装され、木か細い竹の軸にこよりのような紙製の紐を付けるという、粗末な体裁になっている。  裕福な家であれば、肉筆の浮世絵を掛軸や屏風で買い求めることもできたろうが、それもかなわない家では、版画による紙表具(かみひようぐ)の掛軸で間に合わせなければならなかった。そのような顧客の家には、床(とこ)の間(ま)などなかったろうから、掛けるところといえば柱か壁しかない。柱といっても、上等な材木が使われたわけではないだろうから、節穴が目立って見苦しかったはずである。その柱に掛けるから柱絵とか柱掛けとか名づけられたものだが、粗末な柱の表面を隠すという意味合から柱隠しの異名もまたあった。少し切ない響きをもつ名称である。
 とはいいながら、そのような底辺にある、おそらくは九尺二間(くしやくにけん)(間口が九尺〔約二・七メートル〕で奥行二間〔約三・六メートル〕、広さは三坪、約一〇平方メートル)の長屋住まいをする下層の庶民であっても、身銭を切って版画の絵を買い、家の内を飾って楽しもうとした心意気があったのだから、ゆかしいものではないか。浮世絵は実に、そうした質の高い、心豊かな庶民によって、支えられ、育てられたのだと、掛軸仕立のまま保存されている柱絵の原型に接してつくづく実感させられ、誇らしく思えたものである。
 この柱絵という異例の形式の版画が流行(はや)るのは十八世紀末の寛政年間頃までで、文化年間(一八〇四〜一八)以降の幕末期には見られなくなる。代わって登場するのが、大判を縦に二枚継いだ掛物絵である。この方は名称通り掛物(掛幅、掛軸)の標準サイズに近く、縦が八〇センチメートルほど、横も二六、七センチメートルと幅が広く、大型になった。庶民の暮しもより豊かになっていったのであろう この掛物絵の場合も、ヨーロッパの古いコレクションの中に原装のままの紙表具の軸を見出せることが稀にある。ゴッホはそのような一例の溪斎英泉の掛物絵を摸写(もっとも雑誌の図版から間接的にだが)して、浮世絵への熱狂ぶりを今に伝えているのである。

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