浮世絵好きの貴人たち

-遊び大名と芸者の絵-

 浮世絵が、江戸時代の、江戸の町に発達した、町人を中心とする庶民のための絵画であり、版画であったことは、原則として疑いなく正しい。しかしながら、その人間本来の素直な欲求に応えた絵が、自由を愛する心柔らかな貴人たちをも魅了することがあったことは、様々な実例によって証明することができる。
 ここには、その一例として、自らの愛する芸者の姿絵を、ひいきの浮世絵師に描かせた或る大名のことを紹介してみたい。
 寛政の改革の直前、世にいわゆる田沼時代(明和四年・一七六七から天明六年・一七八六)の江戸の町は、消費経済が発達し、町人文化の花が大きく咲き誇ったものであった。元禄に次ぐ江戸のバブル期ということができ、浮世絵も錦絵の色摺り版画で黄金期を迎えることになる。
 この華美で軽佻浮薄な風潮が上下に広まったこの時期に、国元の財政が危機的な状況を迎えているのもはばからず、江戸の町で遊惰に暮していた大名やその子息(〝公子〟)たちが少なからず現れたのであった。  そうした、天明期の〝遊び大名〟たちに興味を抱いて研究中のティモシー・クラーク氏(大英博物館学芸員)から、興味深い注文画が、さる大名から発注されていることを教えられた。現在は写真しか残っておらず、行方知れずになってしまっているのが残念だが、事の成り行きは以下のような経緯と知られる。
越後国(えちごのくに)(新潟県)新発田(しばた)藩の藩主溝口直養(なおやす)(一七三六~九七)は、禄高五万石の外様大名であったが、参勤交代で江戸に滞在するに当たり、日本橋西岸の芸者を寵愛することになった。ところが立場上、そう頻繁には会えないので淋しくてならない。会えない時はせめてそのいとしい面影を思い出すよすがに姿絵だけでも手元に置きたい。そこで、天明元年の七月頃当代一流の浮世絵師の北尾重政(一七三九~一八二〇)に依頼して、容姿を現実的に写生した肖像画を描かせたというのであった。時に溝口侯は数え年四十六歳のことである。
重政は政美(まさよし)(一七六四~一八二四、後の鍬形蕙斎(くわがたけいさい)、政演(まさのぶ)(一七六一~一八一六、戯作者としては山東京伝)、窪俊満(くぼしゆんまん)らの優れた門人を育て、北尾派という一派を興した浮世絵界の大御所であった。大手の本屋須原屋茂兵衛の奉公人から絵師となっており、そのためか知的な教養にも恵まれていて、武家に好ましい人柄でもあったのであろう。御家人出身の大田南畝は、その著『浮世絵類考』で、「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙(いや)しくなりたり」と絶讃しているほどである。
 たしかに、残された写真で見るとその絵は、重政の麗筆のお蔭もあり、大名に愛された芸妓の、やや太(ふと)り肉(じし)ながら柔和な美貌と人を魅きつける心ばえの良さとを、みごとに伝えているようだ(挿図7)。意にかなって満足した溝口侯はみずから筆をとって長文の賛を記し、別幅に仕立てて絵と書との双幅とし愛玩したのであった(挿図8)。
 町の芸者の姿絵を、町の絵師に描かせて、身辺親しく日毎、夜毎、それに見入っていたというのだから、なんともいじらしい。この事実を知り、書画の写真につくづく眺め入るなら、当時の社会にあって絶大な権威と権力をもつ大名、新発田藩主溝口侯その人が、いつの世の普通の人とも変わらない、愛すべき隣人のように思えてくる。

-姫路城主の弟と勘定奉行の孫-

 同じ天明年間に浮世絵のとりことなった高貴な武家として、姫路藩主酒井雅楽頭(うたのかみ)の弟でのちに江戸琳派(りんぱ)の中心画家となった酒井抱一(一七六一~一八二八)と、禄高五百石の旗本で浮世絵界に身を投じ、清長や歌麿に並ぶ人気絵師になった細田時富こと鳥文斎栄之(一七五六~一八二九)とがいる。
 酒井抱一は、あの世界遺産にも取り上げられた姫路城(その白壁の美しさにより白鷺城の愛称がある)の城主酒井忠以(ただざね)(号は宗雅)の弟で、本名は忠因(ただなお)といった。俳句は馬場存義に学んで屠龍(とりよう)ないし杜綾(とりよう)と号し、狂歌に遊んで尻焼猿人(しりやけのさるんど)という狂名を名のった。天明年間はちょうど彼の二十歳代に当たり、吉原遊廓に出入りしたり、大田南畝(狂名四方赤良(よものあから))らの軟派文化人に親しんだりして、江戸の町の風流公子、粋(いき)な若殿として人気があった。山東京伝の洒落本『通言総籬(つうげんそうまがき)』(天明七年・一七八七刊)の中でも、吉原で人の口の端にのぼる公子の一人(俳号の杜綾にちなんで「とき〔り〕やうさん」)として名指しされているほどである。
 その抱一が、俳句や狂歌などの軟文芸と同じく浮世絵にも食指を動かし、歌川豊春風の美人画を得意とするようになっていった。内藤正人氏があげた現存作例だけでも合計で八点にのぼっており、一時期はかなりの熱意をもって、浮世絵の作画にいれこんでいたろうことが、推測されるのである。もとより肉筆画を描くのみで、版画の下絵には手を染めることがなかった。
 しかしながら、曾祖父時以、祖父時敏が勘定奉行の要職を努めた名門旗本の当主、細田時富の場合は、さらに徹底していた。
 天明三年(一七八三)に病いを理由に勤めを辞退して寄合(よりあい)という非職の旗本となった時富は、翌四年、浮世絵師鳥文斎栄之として黄表紙『其由来光徳寺門』の挿絵を執筆、本職の浮世絵師として世にデビューしているのである。その後は一枚絵(錦絵)の版下絵にも積極的に参加して行き、時代の寵児として迎えられることになる。「青楼美撰合」(カラー図版56~58)、「青楼芸者撰」(カラー図版59~61)と、寛政年間(一七八九~一八〇一)の吉原で今を時めく花魁と芸者とを三枚揃いの連作で発表、美人画家としての声価が定まっていく。
 こうした浮世絵界での成功は、寛政改革の波が荒くなると共に、幕臣としての身の危険を招くおそれがあった。それを察した栄之は、寛政元年、数え年三十四歳の若さで実の妹を養女とし十八歳の若い婿をとってこれに家督を譲っている。正式に隠居の身となって、嵐の過ぎるのを待つ策に出たわけである。
 寛政十二年、妙法院宮が江戸に下向した折、栄之に命じて評判の隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせることがあった。京に帰った妙法院宮は、絵のお好きな後桜町上皇(ごさくらまちじようこう)(女帝)に江戸みやげとしたところ、上皇はことのほかお喜びになり、ついには御文庫に納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章を作り、記念としたのである。ついに浮世絵が上皇の叡覧に供せられるという誉れに浴したわけだが、それには作者の出身が将軍直参という、高貴の身分に出ていたことも関係していたには違いない。ともあれ、庶民のための絵画が、貴人の手によって描かれ、内裏の奥にまで届けられるという、「事実は小説よりも奇」な現象が起こっていたことに、改めて注目をしておきたい。

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挿図7
挿図8