◉…将軍御前の席画

 実のところは江戸時代の最高権力者であった徳川将軍にも、代々絵の好きな人が多く出ている。その御用絵師である狩野派の画家たちにとって、将軍に手本を献上して絵の手ほどきをすることも、大切な御用の一つであった。私見によれば、今も残る将軍たちの絵の内で独特の個性を放つのは、三代家光と五代綱吉の描いた作品のように思える。そして江戸狩野の作風をよく学んで玄人はだしの域に達した者として、十代の家治と十一代の家斉があげられよう。  旗本細田時富が一時期小納戸として近侍したのは家治で、絵の師である木挽町狩野家の狩野栄川院典信(みちのぶ)の名の一字をとって栄之の画名を名のるよう直接家治から許されたと、画伝は伝える。もっとも狩野家は、学成った門弟に師の一字を与える〝一字拝領〟のしきたりがあったので、門下の一人として栄之の名を得るのにわざわざ将軍の仲介を要しないのだが、浮世絵師としての履歴に箔をつける上で都合が良いために、この逸話は今になお生き永らえているのである。

 さて、葛飾北斎(一七六〇~一八四九)が将軍の御前で席画を披露するエピソードが、飯島虚心の『葛飾北斎伝』(明治二十六年・一八九三刊)に収められている。

 それによれば、時の将軍家斉が北斎の評判を聞き知り、鷹狩の途中に浅草の伝法院にお召しになって、席画を披露することになったのだという。その折一緒に召し出された谷文晁(たにぶんちよう)が先ず描き、次いで御前に出た北斎は、恐れる様子もなく花鳥や山水の作画を御覧に供した。そして、おもむろに長い紙を広げ、そこに太い筆で藍の色の帯をひと刷きした上に、足に朱色の絵具を付けた鶏を放って、「龍田川の紅葉(もみじ)でございます」と申し上げたというのである。谷文晁の話として伝えるのだが、将軍の前でこのように人を食ったパフォーマンスをすることは、いかに奇人をもって鳴る北斎でも無理であったろうと思われる。しかし、「火の無いところに煙は立たぬ」というように、まんざら種のない話でもなかったのではなかろうか。江戸の町で評判の絵師北斎の名が絵好きの将軍の上聞に達して、御前にお召しということも、あり得ないことではなかったように思われる。

 そうした推理を保証してくれる一幅の掛軸がある。北斎が長身で細面の、すらっとした美人の絵をさかんに肉筆で描いていた文化年間の名作、「二美人図」(カラー図版74)がそれである。

 吉原の花魁が立ち、その足元に芸者が坐って姸を競うこの図は、描写は精細で、一筆もゆるがせにするところがなく、署名は謹直に整い、印章の「亀毛蛇足」の四文字もくっきりと捺されているなど、例になく丁寧な仕上りになっているのである。そしてよく見ると、画面の上下に貼られる一文字(いちもんじ)という裂地と、掛幅の上から下がる風帯(ふうたい)と呼ばれる二本の細い帯、これらは同じ大切な裂(共裂(ともぎれ))が用いられる慣わしだが、そこに三つ葉葵の紋所を織り出した金襴が使われているのである。三つ葉葵の紋は、将軍をはじめとする徳川氏や松平氏にのみ許されたもので、江戸時代の後期にはとくにむやみに使うことができないものであった。私には、この絵は将軍の命に応えて北斎が殊更に気を入れた、会心の作であったように思えてならないのである。もしそうだとすれば、文化年間の将軍はあの逸話にも出てきた絵好きの十一代家斉ということになり、さもあろうかとその可能性を信じたくなってくる。もちろん「二美人図」は制作に手間がかかる精密な絹本着色画で、御前において短時間に描ける類のものではないが、そうしたあらかじめ用意した献上画とは別に、席画の披露もする機会に恵まれたのではなかろうか。たとえその絵が、鶏の足の裏で紅葉の葉を表わし、観楓の名所の龍田川の図とするようなものではなかったとしても、何らか意表をついて座興となるような、奇技を提供したのではないだろうか。

 北斎に絵を頼んだ意外な注文主としては、文政九年(一八二六)にオランダ商館長ステュルレルの江戸参府に従ってきた外国人(オランダ人と偽って来日したが実はドイツ人)のフィリップ・シーボルト(Philipp Franz von Siebold 一七九六~一八六六)もいる。彼のために北斎とその一門が描いた日本風俗画全十五図は、開国以前に西洋人に日本紹介の役割を果たした彼の著書『日本』にも挿絵として利用され、現在もオランダのライデン国立民族学博物館にほぼ完璧な保存状態で収蔵されている。


◉…かしこき辺りからの注文画

 そしてもう一人、宮中のかしこき辺りにも、北斎画の発注者がいらした可能性があるのである。近年今橋理子氏によって七夕の乞巧奠(きつこうでん)を暗喩すると読み解かれた肉筆画「西瓜図」(カラー図版80)は、西瓜の上に載せた庖丁の刃に、よく見ないとそれと分からないように地の色に近い色で小さく、「応需」と記されているのである。「需(もと)めに応じて」という意味のこの二文字は、普通は署名に添えてその傍らに記されるものなのだが、あえて隠すように見えにくく記すのには、それをはばかる特別な事情があったからなのだろう。そう推察する今橋氏の推論を妥当なものと私も支持したい。署名は「画狂老人卍筆 齢(よわい)八十」とあり天保十年(一八三九)の作と知られる。時に仁孝天皇(一八〇〇~四六)の御世であり、またその父光格上皇(一七七一~一八四〇)の最晩年に当たっていた。ちなみに亡き吉田暎二(てるじ)氏はかつてこの図が光格天皇に御覧に供された由を記している(日本経済新聞版『北斎』)が、何らかの確かな資料に拠るものであったかは不明である。

 実に北斎は、天皇ないし上皇、そして将軍と、当時の日本社会でもっとも尊貴と仰がれた人々に、さらには鎖国の島国にあっては例外的に外国人からさえも、絵画制作の依頼を受けていたのである。「葛飾の百姓」を自称していた江戸の浮世絵師北斎にとって、望外の名誉であり、誇るべき履歴というほかない。


※ 最近「西瓜図」の箱を見る機会を得られ、蓋裏に「雪衣珎玩(花押)」の墨書があるのを確かめた。雪衣の号をもつ旧蔵者は皇室に連なる人とは思われず、この辺りの論述は再考すべきと考えるに至っている(二〇〇八年十二月付記)。

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