大名と浮世絵師

◉…大名の絵師となった浮世絵師

 先に、大名のために芸者の肖像画を描いた北尾重政のことに触れたが、その高弟の北尾政美(一七六四~一八二四)は、浮世絵師の身から大名の御用絵師に取り立てられるという、当時にあっては僭上沙汰ともいうべき破格の出世をして、世人を驚かせたものであった。

 そもそも彼は、江戸の畳屋の子として生まれ、俗称を三二郎といったので、仲間から〝畳屋の三公〟と呼ばれていた。その住居が堀留の杉森新道にあったので、三公にちなんで杉皐(さんこう)の号を自称するという、江戸の下町っ子らしい洒落っ気も見せた。黄表紙などの挿絵に好評を得、錦絵では武者絵や浮絵、組上(くみあげ)燈籠絵などの特殊なレパートリーで注目を集めるようになる。また寛政二年(一七九〇)には色摺りの絵本『海舶来禽図彙(かいはくらいきんずい)』を刊行、写生画にも秀でたところを示している。

 こうして浮世絵界に頭角をあらわした政美は、いかなる機縁があってか寛政六年に、美作国(みまさかのくに)(岡山県)津山藩松平侯の御用画家に選ばれているのである。津山藩主松平家といえば、家門(かもん)大名(将軍家一族の大名)として格式が高く、本来ならば〝畳屋の三公〟風情が出入りできるようなお相手ではなかったはずなのである。

 藩の絵師に登用された政美は、遅まきながらも幕府の奥絵師(おくえし)狩野養川院惟信(これのぶ)に入門して正規の絵(〝本画〟)を学ぶとともに、武家に準ずる身分にふさわしい名前、鍬形蕙斎紹真(くわがたけいさいつぐざね)と改名している。もともと浮世絵の本領とする美人画や役者絵とは縁が薄かったのが、こうした栄誉の転進を許したのであろうが、珍しいケースには違いない。

 大名の絵師に取り立てられて以後は、さすがに草双紙の類への作画は遠慮するようになるが、江戸の出版界とはなお縁をつなぎ、寛政七年の『略画式』をはじめとして、『鳥獣略画式』、『人物略画式』、『山水略画式』などの絵手本類を相ついで刊行している。略筆によって様々な物や事象を描くこうした絵本類の出版は、『北斎漫画』に先行するユニークなものであった。事実蕙斎は北斎の摸倣行為をにがにがしく告発、非難する言葉を残している。

 すなわち、斎藤月岑著『武江年表』の「寛政年間記事」の項に、次のような蕙斎(政美、紹真)の言葉が引用されているのである。


北斎は画風癖あれども、其徒のつはものなり。政美(略)語りて云(いわく)、北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり。是(これ)は略画式を蕙斎が著して後、北斎漫画をかき、又紹真が江戸一覧図を工夫せしかば、東海道一覧の図を錦絵にしたりしなど、いへるなり。


 右にもあるように蕙斎はまた、江戸の市中、市外を一望の下に鳥瞰する図を工夫して一枚刷りとし、同時に神田明神の社前に江戸絵図の絵馬額を奉納して、評判を博したという。現存する肉筆画の大作として、六曲一隻の「江戸一目図(いちもくず)屏風」が、ゆかりの地、津山の郷土館に保管されている。

 また、軽妙な筆致で江戸の町の人々の風俗を様々な業態の紹介とともに描写した「近世職人尽絵詞(づくしえことば)」(挿図3-92)と題する三巻の絵巻(文化二年・一八〇五作)が東京国立博物館に収蔵されているが、この優れた風俗絵巻は、かの寛政改革を実施した松平定信が注文して描かせたものであった。

 浮世絵師北尾政美、またの名は津山藩松平侯の御用絵師鍬形蕙斎は、江戸庶民とは主として印刷の版本や版画でつながり、武家には肉筆画を提供して、雅と俗の両文化の間を自在に往き来し、しかもついに自分を見失うことのなかった、まことにたくましく、また自由な画家であった。


◉…大名を救った浮世絵師

出羽国(でわのくに)(山形県)天童藩と江戸の浮世絵師との関わりは、いささか事情が変わっていた。藩の財政の窮乏を、結果として一介の浮世絵師が救う形となったからである。

 幕末の時期になると、基本的に領地における米の生産に頼っていた武家階級は、相つぐ天災や流通経済の発達などによって、おおむね財政事情が悪化していた。そこで幕府をはじめ多くの藩では、領民や御用商人から御用金を召し上げて急場をしのぐという、安易な策が採用された。御用金は、献金と違って一定の利息を付けて返済すべきものであったが、それもとどこおりがちで、遂には踏み倒してしまうケースも多かった。

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