天童藩の場合は、十年年賦で納めさせた御用金が返済の期日を迎えた年の年末に、上納者たちを役場に呼びつけ、江戸で人気の浮世絵師歌川広重の肉筆画を下賜するだけで返金はせず、さらに向こう十年間の御用金の継続を命じたのであった。

 借金返済を先のばしするばかりでなく、さらなる御用を強要するのであるから、只ではばつが悪かったのであろう。手みやげ代わりに広重の絵が使われたのであり、市川信也氏の調査によれば、その総量は双幅ないしは三幅対が少なくとも百組、二百幅以上を数えるほどに大量にのぼっただろうと推定されている(その内で文献に題目が報告されたものを含めて現在までに存在が確認されたのは合計百二十三幅)。

 以上のような状況がほぼ把握できるのは、拝領した絵を家へ持ち帰った人々の多くが、余りの仕打ちと怒りを込めて、事の顛末(てんまつ)を軸箱の内側に記し残しているからである。その一例として、現在MOA美術館に所蔵されている双幅「犬目峠春景・猿橋冬景図」(挿図3─120)の箱書(箱の底に記してある)の記事を、現代文に直して紹介してみよう。


織田兵部少輔様よりの御拝領。天保十三年(一八四二)から嘉永四年(一八五一)まで十年年賦で御用金を三十両差し上げた。(ところが)嘉永五年から(向こう)十年の年賦でさらにまた御用金を差し上げることとなった。都合六十両である。
嘉永四年十二月二十六日 蔵増門伝村 名主 源次郎


 事実のみを子孫のために書き残したものだが、行間に埋め込まれた恨みはさぞかし深かろうと、想像に余りある。嘉永四年十二月二十六日のこの日に呼び集められた者は、この源次郎のような藩内の豪農のほか、近隣の山形から御用商人として藩に出入りしていた富商もいた。彼らの一人は、三幅対の軸箱の蓋の裏に、二十年賦の御用金は三百両であることを書き付けている。なんと村の名主の六十両の五倍であり、その高額に応じて双幅ではなく三幅対と、一幅多く加えた広重画が下賜されていた。

 天童藩主の織田侯は、あの織田信長の次男、織田信雄(のぶかつ、のぶお)に血筋をつなぐ、由緒ある武門の名族である。それが、百姓や町人に金を借り、その申し訳けの返礼として、庶民の美術品である浮世絵を贈ったというのだから、歴史の皮肉もここに極まったというところがある。もっとも絵の作者の広重は、将軍直参の御家人安藤家の当主から浮世絵師となった、異色の存在ではあったのだが。

〝天童広重〟と通称される肉筆画は、ほとんどが江戸や国内諸地方の名所風景画で、版画制作に追われて比較的肉筆画の作例が少ない広重にあっては、貴重な存在として以前から注目されてきた。ここで蛇足をおそれず一言を加えれば、〝天童広重〟の一々がすべて落款通りに広重自身によって描かれたとは到底思えないということである。その一つの理由は、二百幅以上の作品を短期間で描かなければならなかったからであるが、もう一つのもっと必然的な理由として、当時の一家をなした画家であるなら否応無しに、門下の画工たちに仕事を回してやる義務があったからである。彼ら門人たちは師匠の名において作画の仕事が可能となり、糊口をしのぐことができたのであった。〝天童広重〟を複数見ていると、その中に出来の良し悪しの差が大きく分かれることに気付かされるが、それは門人たちによるいわゆる工房作品が多く混ざっているからなのである。当時五十歳代と円熟期に入っていた広重の周囲には、重宣(しげのぶ)(二代広重)や重政(三代広重)など十人を超える弟子がおり、その内の有力な画工が、図柄は師に与えられた下絵に従い、それを師の作風に忠実に描いて、代作したことと思われる。


◉…大名の見た浮世絵版画

 かつて名古屋の徳川美術館で、「大名の見た浮世絵版画」という、ユニークな特別陳列が行われたことがある(平成元年〔一九八九〕十一〜十二月)。

 その折の出品リストを印刷した二枚折りのリーフレットが手元にあるが、そこに注目すべき記事を見出すことができる。


☆は、昭和二十七年、名古屋市都市計画法に従って建中寺にある徳川家墓地を発掘した際に、尾張(おわり)徳川家十三代藩主慶臧(よしつぐ)の墓から出土した副葬品です。

 慶臧は、嘉永二年(一八四九)にわずか十四歳で亡くなった尾張藩主で、幼い頃から浮世絵を眺めて楽しんだり、一般庶民の風潮を勉強したと思われます。

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