文意は明瞭で、説明の必要はあるまい。幼くして亡くなった幕末の尾張藩主の墓の中から、副葬品として入れられていた浮世絵が少なからず見出されたというのである。

 リストの中の☆印が付いた作品の内、主なものを紹介すれば、次のようなものである。

 北斎については『北斎漫画』と『隅田川両岸一覧』の絵本、広重は「狂歌入東海道五十三次」や「木曾海道六十九次之内」などの道中絵に、子供らしく「五十三駅東海道富士見双六」、そして「江都名所」「東都名所」の江戸名所絵と、風景画が多い。そしてまた広重の曾我ものや、国芳の武者絵や戯画、三代豊国(国貞)の源氏双六など、物語や伝承に取材して子供にも分かりやすく絵解きした作品が多い。とくに幼いながらも御三家の藩主として武家の上に立つ身にふさわしく、「通俗水滸伝豪傑百八人之一個(ひとり)」や「武勇准(やつし)源氏」などの揃物、「武田上杉川中島対陣の図」などの三枚続と、国芳描くところの武者絵が、もっともお気に入りだったようである。

 数え年わずか十四歳で夭折した幼主を憐れみ、泉下に淋しい思いをしないようにと、日頃愛玩のものを副葬するのに、かくも多数の浮世絵の絵本と版画とが選ばれたということは、浮世絵を専攻する私にとって思いがけない事実であった。まさかこれほどに大名の奥向きまで浮世絵が浸透していたとは、想像できなかったからである。

 少なくとも幕末の時点になると、浮世絵は庶民の美術という枠組を離れて、すでに上下の各層に支持者、愛好者を広げていたことが、改めて確認されたのであった。


地方の顧客

◉…最適の江戸みやげ

 尾張の殿様が人知れず浮世絵をごひいきにしていたとはまことに意外であったが、浮世絵が江戸っ子のみを対象とする地域限定の商品でなかったことは、かなり早い段階からのことだったのだろう。

 天下の城下町として全国諸大名の江戸屋敷が置かれ、そこには交代で単身赴任の藩士たちが多数駐在していた。また商家にあっても大店であれば本店(ほんだな)が京都や近江(おうみ)、伊勢(いせ)などにあって、番頭や手代の転勤や出張が頻繁に行われた。季節労働の出稼ぎなどで、農村部から江戸へ出てくる者も少なくなかった。

 そうした江戸の一時滞在者たちが、故郷へ帰るのに手ぶらですまなかったことは、義理がたい昔のことであるから今よりもはなはだしかっただろうに違いない。

 土産物として何よりの長所は、その土地の特産品で珍しく、安くて軽く、それでいて目立ってくれるものだろう。こうした特性を、江戸絵と呼ばれ、吾妻錦絵とうたわれた浮世絵版画は、他の何よりもふさわしく備えもっていた。

 天保五年(一八三四)に刊行された『江戸名所図会』巻之一に、長谷川雪旦の挿絵による地本問屋鶴屋喜右衛門の店頭図が収められているが、そこに挿入された解説文に次のような記載がある。


錦絵 江戸の名物にして他邦に比類なし。中にも極彩色、殊更高貴の翫(もてあそ)びにもなりて、諸国に賞美する事、尤(もつとも)夥(おびただ)し。


 先にも見てきたように、錦絵の愛好が高貴の層にまで及んでいることと、江戸以外の地方においても人気があったことを、ここに証言してくれているのである。

 それより早く、寛政十一年(一七九九)に刊行された北斎の、『東都遊』という狂歌絵本には、天明・寛政期の江戸の出版界に旋風を巻き起こした、蔦屋重三郎(一七五〇〜九七)の店先が描かれている。蔦重は、歌麿や写楽らの絵師を売り出し、曲亭馬琴や山東京伝らの戯作者を育て、四方赤良(大田南畝)らと狂歌を楽しんで蔦唐丸(つたのからまる)という狂名をもった、当代一流の文化人であった。版本や版画にすぐれた企画を生み、才能を発掘して多くのスターを世に送り出した、江戸の軟文化の大立者だったのである。彼はこの本が出る二年前に亡くなっているが、通油町(とおりあぶらちょう)にある耕書堂こと蔦屋重三郎の店頭風景を描くに当たって、その初代を登場させないわけはない。若き日の北斎自身が励まされ、作品発表の機会を多く与えられた恩人であるので、なおさらである。図の左手奥、帳場に坐る禿頭の温顔の人が、亡き蔦重ということになろう(挿図9)。

 江戸において最新の文化情報を発信していたもっともホットなスポット、その耕書堂を訪れている客は、二本の刀を差しており、しかも大きな荷物を振り分けにした従者を連れているところから、地方から出てきたお武家さんと察せられる。国元へのみやげの品を物色に立ち寄ったというところだろうが、実際のところこの種の客筋が珍しくなかったことを確かに伝えてくれる画証資料である。

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挿図9