◉…江戸からの強烈な刺戟

 鈴木春信の春画の代表作に、『艶色真似ゑもん』という十二枚一組の揃物がある。色摺りで美しく、また中性的な春信スタイルの男女による秘戯の図は、他の春画によくあるような露骨な描写がほどよく抑えられて、さぞかし好評だったのであろう、続編がもう十二図刊行されている。

 この作品の趣向は、仙薬を飲んで豆粒のように小さくなったまねえもんが、諸国(初編)や遊里(後編)に好色修業の旅をするというものである。豆男が忠実男(まめおとこ)すなわち好色の男という意味をもつことと、主人公が小さくてどこにも潜入することができ覗き見趣味を満足させるところから、春画の一分野に豆男ものが古くから開かれているが、春信のこの作品などはもっとも成功した作例といって良いだろう。

 その初編の一図(第十図)で、とある農家の蚕部屋(かいこべや)でことに及ぶ場面がある(カラー図版29)が、その図に書き込まれた夫婦のせりふが面白い。


(夫)「せな(兄)が江戸みやげにあづまにしきと云(いう)色絵を見たら、気がわるふ(悪う)なつた。」

(妻)「これ申(もうし)、おこさまのまへ(前)でけが(汚)れますぞへ。」


 養蚕を業とする農家にあっては、蚕(かいこ)は大切に扱われ、御蚕様(おこさま)と敬称つきで呼ばれた。蚕棚が置かれた御蚕部屋(おこべや)は神聖な場所であって、とてものことにもったいなくて迷惑だと、妻は必死に夫の手から逃げようとする。夫の方は、兄が江戸からのみやげに持ち帰った吾妻錦絵という色摺りの版画を見ている内に欲情がきざし、もはや待ったなしに抑えられなくなった、というのであった。

 当初私は、この「せなの江戸みやげ」は、まねえもんの登場するこの絵のような春画であって、それ故に「気が悪うなった」のだと思ったのだが、あるいは実際はそうした春画や艶本である必要もなく、普通の錦絵を見ても充分に興奮させられるほど、江戸の「色絵」は地方の農村の人にとっては刺戟が強かったのかも知れないと、最近は思い直すようになった。江戸と田舎とはそれほどに文化格差が大きく開いて、江戸土産の版画や版本は、まぶしいほどに憬れやまない都市文化の具体的な証(あか)しであり、象徴(シンボル)だったように思われる。現代のようにテレビやインターネットなどで中央と地方との間が接近した時代では、想像もつきにくいほどに、江戸の浮世絵が発した光彩は明るく、魅力的だったはずなのである。


◉…長崎から海外へ渡った浮世絵

 鎖国状態の江戸時代にあっても、早くから浮世絵が海外へもたらされていたことは、余り一般の知るところではない。実は、少なからぬ作品が海の向こうへ渡っていたのである。

 その多くが、長崎の出島にオランダ東インド会社から(一七九八年に東インド会社が解散した後はオランダ東インド政庁から)派遣されていた商館員、とりわけ商館長が日本で買い集めて、国へ持ち帰ったものである。代々の商館長のコレクションは現在もライデン国立民族学博物館に保管され、かつてその一部が里帰りして展観に供されたこともある(昭和五十一年・一九七六「シーボルト・コレクションを中心とした浮世絵展」)。ドイツ人であったが出島のオランダ商館付医官として来日したフィリップ・シーボルトは、文政六年(一八二三)から同十一年まで滞在し、版画ばかりでなく肉筆画も日本研究資料の一部として購入、先にも触れたように北斎に直接、風俗描写を主旨とした肉筆画の作画を依頼することまでした。長崎地域での生活風俗については、川原慶賀という写実描写にすぐれた画家の協力を得ていたシーボルトであったが、実質的な首都として機能していた江戸での日本風俗を、当代一流の画家の手によって描いてもらいたかったのであろう。

 以上のようなオランダへ持ち帰られた浮世絵については多少従来から知られていたが、アメリカの東海岸にも開国以前に浮世絵版画が渡っていたことは、つい最近まで知らなかった。そのことについて私に初めて教えてくれたのは、伊万里焼を中心に日本陶磁史の研究を続けているニコル・ルマニエール女史である。

 ルマニエール氏は、現在、英国にあるセーンズベリー日本美術文化研究所(SISJAC)の理事長として、日本の美術と文化の欧米における研究を促進するために献身的な努力を続けてくれている。その彼女が長期にわたって日本に滞在している間に、マサチューセッツ州のセーラムにあるピーボディー美術館が一八〇〇年当時に館有品として登録した浮世絵版画が五枚現存することを、私に話してくれた。セーラムは、彼女の母校ハーバード大学のあるボストンに近い古くからの港町で、私もかつて一度訪れ、エドワード・モース(大森貝塚の発見者として名高い)の日本民俗資料で知られるピーボディー美術館の展示も見ているのだが、それらの版画には気付かなかった。

 江戸時代の長崎には、中国船のほかにはオランダの船しか入ってこなかったと思い込んでいた私にとって、意外な事実であったので、日本浮世絵協会(現在の国際浮世絵学会)の月例研究会で口頭発表をお願いした。その内容の大概は、以下のようなものであった。

 寛政十一年(一七九九)に長崎に入港したアメリカのフランクリン号は、オランダ船として受け入れられたので、艦長のジェームス・デュブロー以下の乗組員も上陸し長崎市内を観光することも可能であった。その折、長崎の町で購入した歌麿や栄之、豊国といった当時現役の人気浮世絵師の錦絵五枚は、祖国のセーラムへそのまま持ち帰られ、設立されて間もないピーボディー・エセックス博物館に寄贈されることとなる。ペリーが黒船で江戸湾に侵入して来る半世紀以上も前に、公式な交易の関係をもたないアメリカにまで錦絵が伝わっていたことは、目から鱗が落ちるような、驚きの新事実であった。その後、これらの内の二図、歌麿(挿図1─10)と栄之の美人風俗画を私が企画担当した展覧会(「錦絵の誕生 江戸庶民文化の開花」、於江戸東京博物館、平成八年・一九九六)にお借りして、二百年ぶりの里帰りを実現したことがある。

 浮世絵の購買者としてはわずかながらも外国人までが存在したことは、忘れられない事実である。先に紹介した歌麿の亜流画家たちへの慷慨の弁の中に「異国迄も其恥を伝る事の嘆かはしく」といった言葉が見えるが、「異国」とは字義通り外国にまでということであって、武蔵(むさし)の国である江戸の地の外にまでとしていた考えを改めるべきかも知れないと、思ったりもしているこの頃なのである。

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