二…浮世絵は何を描いたか

多様な主

◉…教育的メディアとしての機能

 現代にあってもなお開発途上の国々では、真剣に識字(しきじ)運動(文字の読み書きを可能にする運動)と取り組んでいることを仄聞(そくぶん)するが、江戸時代の日本の庶民の識字率や知的水準は、想像をはるかに超えて高かった。そればかりか、絵や版画、工芸品などの審美眼や、音楽・演劇など諸分野の芸能への関心は、あるいは現代の日本の一般的な水準を超えていたかも知れないのである。

 大仰に言うことを許されれば、その時代にあっては(少なくとも十八世紀半ば以降の一世紀ほどの間では)、江戸の町人(庶民)は全体として、地球規模でも最高の大衆文化を享受していたように思われるのである。

 仮名文学が主体とはいえ、現代の私たちにとってはよほどの専門家でなければ読めない草双紙類が、時には何千もの部数売れたのであり、広重の「東海道五拾三次之内」(保永堂版、天保四・五年〔一八三三・三四〕刊)などの大当たりの版画ならば時には万の単位で刷り重ねられた。日本の古典の和歌や物語、故事・伝承の類はもとよりのこと、中国の古今、また硬軟の別もない主題にまで及ぶ浮世絵版画が、年端も行かない子供から、長屋住まいの大人にいたるまで、しごく自然に楽しまれていたのである。和歌や漢詩、俳句や狂歌を画賛に載せる絵を歓迎して詩を味わう心根もやさしく、江戸ばかりでなく全国各地の風景や風俗、土産(どさん)の珍しい品々を描く絵にも魅かれるようにその好奇心はまことにさかんであった。

 式亭三馬の『浮世風呂 二編』は「女湯之巻」で、文化六年(一八〇九)九月の自序があり、今から二百年前当時の世相を女たちの口から語らせて、まことに生彩がある。その中で、辰(たつ)という名の中年の女性が、「そばにいるひと」と語り合う話の内容が興味深い。


辰「(略)三ばん目の兄(あにい)どのは又、合巻(ごうかん)とやら申(もうす)草双紙が出るたびに買(かい)ますが、葛籠(つづら)にしつかり溜りました。ヤレ豊国が能(いい)の、国貞も能(いい)のと、画工(えかき)の名まで覚えまして、それは〳〵今の子どもは功者(こうしや)なことでございますよ

巳(そばにいるひと)「さやうさねへ。私どもの幼少な時分は、鼠(ねずみ)の嫁入(よめいり)や、むかし咄(ばなし)の赤本が此上(このうえ)なしでございました 辰「いへさ、何事も移りかはる物(もん)でございますよ。(略)」


 この前後の二人の会話は、辰の子供は五人おり、長女は嫁に出て初孫を懐姙中、長男は父親の主家筋の「本店(ほんだな)」に奉公に出ている。合巻を好む男の子は上から三番目の次男でローティーンというところか、その下の女の子は八歳で手習いの師匠の許(もと)へ弁当を持って行きたいとねだったり、役者の絵姿が折りかえすごとに早がわりする「替り絵」を箱いっぱいたまるほど買い集めるおませな娘、さらに末っ子に二つばかりの女の子がいるという具合である。下女もつかう小店(こみせ)の商人(あきんど)の女房だが、子沢山の真ん中の次男坊が、十を超えた位の少年にもかかわらず、草双紙の版下絵師としては歌川豊国が良いとか、その弟子の歌川国貞もうまいとか、いっぱしの月旦評(しなさだめ)をしているというのである。

 合巻とは、三冊物、五冊物の黄表紙を一冊に綴じ合わせて売り出したもので、この頃の少し前からはやり出した草双紙の形式である。内容もこみ入って来て、大人向きになっており、母親たちの世代が愛読した子供向けの赤本や黒本、青本といった素朴なものとは、大分様子が変わってきていたのである。

 その妹娘が通う手習所(てならいどころ)は、その規模こそ分からないが、町のあちこちにあった寺子屋の一種であっただろう。そうしたところで、子供たちが集まり、おおむねは一人の先生から手習いのほか、素読(そどく)や算盤(そろばん)などを教えられたのである。女の子は、師匠の奥方に裁縫などのしつけも受け、男の子には謡曲なども習わせたようだ。初等教育としてのつとめを十分に果していたのである。したがって、教育に熱心な親たちは子供の後押しをして家計に無理をしてでも通わせたので、文字の読める子は多く、文盲の大人が嘲笑の対象となるのが江戸の町人社会の一般的な水準だったのである。

 浮世絵は、そうした受け手の庶民の知的な水準の高さによって支えられ、育てられたわけだが、逆に浮世絵が庶民の教養を高める教育的なメディアとしても機能したことを、忘れてはなるまい。先にも触れたように、絵を通して和漢の古典と親しみ、和歌や俳句をはじめ各種の詩歌を味わって情操を養い、外国や国内の情報に通暁するなど、浮世絵から知ったり学んだりすることは多かった。かつて吉田暎二氏が浮世絵を現代の新聞になぞらえ、浮世絵版画の多様さを政治・国際・経済・文化学芸・演芸・家庭・子供・娯楽・スポーツ・社会・地方等の諸欄に仕分けしてみせてくれたことがある(『浮世絵談義』所収「浮世絵と新聞」)が、正に今日の新聞や雑誌、テレビなどに近い、マス・コミュニケーションの有能な媒体として、庶民に奉仕していたのであった。

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