花鳥風月への憬れ

◉…自然の恵み多い江

 今では信じられない話だが、コンクリート砂漠東京が江戸と呼ばれていた頃その町は、緑の多い庭園都市、起伏に富んだ丘陵が出入りする田園都市であった。

 一八五九年六月末(安政六年五月末)に〝大君(たいくん)(将軍)の都〟江戸の地にはじめて足を踏み込んだ英国の初代駐日公使ラザフォード・オールコックは、この町の自然の美しさを次のように述べている。


この首都(江戸)には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないようなすぐれた点がある。それは、ここが乗馬をするのに、ひじょうに魅力的な土地だということである。その都心から出発するとしても、どの方向に向かってすすんでも、木のおいしげった丘があり、常緑の植物や大きな木で縁どられたにこやかな谷間や木陰の小道がある。しかも、市内でさえも、とくに官庁街の城壁沿いの道路や、そこから田舎の方向に向かって走っている多くの道路や並木道には、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよくしげった公園とかがあって、目を楽しませてくれる。このように、市内でも楽しむことができるような都市はほかにはない。どの方向にすすんでみても、郊外に出るとすぐに、美しいないしさっぱりした風景を目にすることができる。この風景と太刀打ちできるのは、イングランド地方の生垣(いけがき)の灌木の列の美しさぐらいなものであろう。(山口光朔訳『大君の都』)

 少しく長い引用となってしまったが、幕末の日本に闖入(ちんにゆう)した異国人の目に、喜望峰以東もっとも恵まれた風土と映った江戸という都市の自然の魅力が、実によく伝わってくる文章ではないだろうか。今これを読む私たちも、馬には乗れずとも自分の足で歩き回ってみたくなるほどである。

 実際に江戸の人々は実に健脚で、よく市内、郊外へと足を運び、四季の行楽を楽しんだようである。そのことは、様々な詩歌、俳諧、文章によって確かめることができる。たとえば親・子・孫三代をかけてまとめた厖大(ぼうだい)な江戸の絵入り地誌『江戸名所図会』(斎藤長秋・莞斎・月岑著、長谷川雪旦画、天保五〜七年・一八三四〜三六刊、二十冊)や、文化四年(一八〇七)から天保五年(一八三四)までに村尾正靖(まさやす)(号は嘉陵(かりよう))という人が江戸の郊外を旅した記録『江戸近郊道しるべ』(自筆本二十六冊)などはその代表的なものである。また、花や鳥、蛍や雪の名所を探勝するのにたよりとなる案内記も、『江戸名所花暦』(岡山鳥著、長谷川雪旦画、文政十年・一八二七刊、三冊)をはじめとして各種の本が刊行されているのである。それらのガイドブックに誘われて、軽食を携え、酒や湯茶を瓢箪に収めて、諸方に枕を引いて逍遥する楽しみは、いかばかり大きかったであろうかと察するに余りあるものがある。


◉…風景版画の独立

 こざっぱりと整備されて美しい江戸の市街地と郊外の風光が、その住人たちに格別に意識して愛されるようになるには、都市としての成熟が一定の水準に高まるまでの十分な時間が必要であった。先にも触れたように、その機がようやく熟したのは十九世紀の初頭のことで、幕府がこの地に開かれてから二世紀を経過して以後のことであった。

 そもそも、この世の風俗を主な関心事とした浮世絵が、遊女や芸者、役者や力士など、浮世のスターを主な対象とする人物画に関心を集めたことは言うまでもない。美人画や役者絵、相撲絵が浮世絵の華であった。やがて市井の一般人を生活の場の中において扱う風俗画が、春信以後の錦絵時代に入って大きく取り上げられるようになると、鳥居清長の二枚続、三枚続の続き絵に典型的に見られるように、背景の風景表現に現実感のある描写が求められるようになってくる。そうして、本格的に風景画が浮世絵版画の一分野として独立し、定着するようになるには、天保年間、一八三〇年代以降の幕末期まで待たなければならなかったのである。

 その画期を告げる記念的な連作が、葛飾北斎と歌川広重とによってほぼ同時に出版されている。天保二年(一八三一)のことで、北斎は「冨嶽三十六景」を、広重は一幽斎の号で「東都名所」(いわゆる一幽斎がき)を、それぞれ横大判(約二五×三七センチメートル)という本格的な判式によって発表したのであった。

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