◉…掛け軸の春画

 春画についての認識を改めて、ごく自然に、また寛容に見ることができるようになった私の個人的な体験を、ここにご紹介しておきたい。

 かつて、それまで見たこともないような肉筆浮世絵の掛け軸作品に出会った。ある美術商が新出の逸品と誇らしく広げてくれたその掛け軸装の絵は、大きな横絵で、描かれた内容は人目もはばかられるようないわゆる〝あぶな絵〟であった。白梅の墨絵が描かれた腰屏風が立てられているから座敷の内と分かるが、その屏風の前で、年配の男性が振袖姿の娘の下半身を無理矢理に剥(む)き出し、にやけた表情をしているという、何とも困った図柄なのである。屏風画中には隠し落款風ではあるがはっきりと「歌麿筆」と署名が記され、印章すら捺されている。

 いやがる少女を後から取り押さえ、右の足を娘の腿の辺りにこじ入れて、いわゆる〝新鉢(あらばち)〟のいたいけな秘部をあからさまにしている大人の男の卑しい行状が、どうして一流絵師の歌麿の手によって描かれることになり、立派な掛け軸装に表装されたのだろうか。

 掛け軸は本来、床(とこ)の間(ま)という聖なる美術鑑賞専用の場か、部屋の内でも特定の壁面に掛けるためのもので、巻物や冊子などとは異なり公開性の高い書画の形式である。個人がひそやかに楽しみを独占するためのものではなく、家庭内の人々(家族と使用人)や来訪の客(知人・友人)にも見られることが想定されるので、そこに表される書画の内容といえば、神聖であるか吉祥性をもつか、あるいは〝健全〟な娯楽や慰安を与えるものであるのが普通なのである。

 にもかかわらず、その絵は、髪型や服装から良家の娘とおぼしき乙女を、商家の主(あるじ)として分別もありそうな中年の男が〝いたずら〟をしている不道徳きわまる図柄であって、とてものことに昼日中から人目にさらせる類のものでは決してない。公開性に欠けるという点では、掛け軸装に仕立てるべきものでないはずのものなのである。

 寛政年間(一七八九〜一八〇一)後期の、歌麿としては円熟期の優れた表現によって隅々までも細かく描かれているこの掛け軸画は、保存状態も完璧に近く、まるで昨日描いたかのように画面の鮮度が良い。

 自然に至り着いた私の結論は次のようなものであった。すなわち、この絵は、何かの集まりのために特別に注文して人気絵師の歌麿に描かせたもので、一座の連中の目の前に掛け広げたその瞬間が勝負、という性格のものだったろう。そして、お目当てである知友の驚きと当惑、失笑からやがてはなにがしかの賛辞を得ていっときの満足を得れば所期の目的を達したと、再び巻き収め、箱に仕舞われたのであったろう。その手はしばしば使えるものではなかったからこそ、掛け広げる頻度は少なく、必然的に保存状態が良く保たれる結果とはなったのである。

 その後も、鳥文斎栄之による四季四幅の春画など、この種の掛け軸に幾度か出会ったが、ほぼ例外なく画面の状態は良好で、艶麗な色彩の効果が大いに楽しめるものであった。

 さて、春画ははたして何の目的のために、誰が必要として描かせたものなのか、男だけの慰みものであったのか、女も楽しんでいたのか、かつて私たちの祖先の性愛に対する民俗的な意識はどのようであったのか、などなど、春画に対する疑問はさまざまに沸き上がってくる。そして識者によって提出されてきたその答も多岐に分かれて一様ではない。

 私には、この掛け軸の春画に、そうした疑問への核心をつく答のヒントが隠されているように思われるのである。春画は、個人か個人的なつながりの強い複数の人々が、まじめな生活とは切り離された時間に特別に楽しんだ性愛の絵画ないし版画であって、本来の成り立ちからいっても余りあからさまに陽の目を当ててはいけないものであろう。一般公開を前提とする春画の展示には、春画の故国である日本ではやはり控えるべきだろうと、現在のところ私はそう思っている。


◉…春画の略史

 我が国における春画の歴史は、遠く古く、奈良時代の建築や仏像の落書などにその片鱗がうかがえるのに始まり、平安時代にはすでにかなりの発達をみていたことが、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(一〇五三〜一一四〇)に関わる逸話(『古今著聞集(ここんちよもんじゆう)』巻十一「画図」第十六)からも知られる。「ふるき上手どもの書きて候おそくづの絵」でも「その物の寸法は分に過(すぎ)て大(おおき)に書」くものであり、「ありのままの寸法にかきて候はば見所なき物に候故に、絵そらごととは申」すのだとあるから、〝おそくづの絵〟、漢字で表記すれば〝偃息図の絵〟(「偃息(えんそく)」は横になって休むという原義から男女同衾(どうきん)の意となる)、すなわち春画が、すでに平安の昔から珍しいものでなかったことが分かる。そしてまた、「その物」を実際より誇張して大きく描くことが一つのコンベンション(常套の手法)として定着していたことさえも知られる。歴史はすこぶる古いところまでさかのぼるのである。

 実際の遺品としては、近年原本の所在が確認された「小柴垣草子(こしばがきそうし)」(東京・個人蔵)が鎌倉時代にまでもさかのぼる可能性を有するといい(山根有三氏の弁)、男色(なんしよく)の絵巻「稚児草紙(ちごぞうし)」の醍醐寺三宝院本が元亨(げんこう)元年(一三二一)の年記を備えると報告されている。以後、室町から桃山にかけて武家闘争の時代に多くの春画絵巻が描きつがれてきた推移については、土佐派や狩野派系の現存作品が比較的数多く確認されることからも、疑い得ない事実である。

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