胴彫りの次は頭彫りの修業へと入っていく。先ずは人物画の手足を彫ることから始め、とくに指さきの彫りを練習させる。次に耳、そして顔の全体に及び、最後に髪の毛の彫りへと移っていく。もっとも難しいのがこの髪の毛の彫りで、絵師が大体のあたりをつけただけの生え際を一筋一筋彫り分けていくいわゆる毛割(けわ)りの妙技は、彫師の腕の見せ所であった。

 一方、摺師になるのにも親方に年季を入れて下働きをしながら習い覚えることになる。小僧の時分には、紙にしめりを与えたり、刷毛や雑巾を洗い、水を換えるなどの雑用を専らつとめさせられる。やがて安物絵のやさしい色板から摺りを経験し、練習していく。未熟の間は、鼠(ねずみ)(灰色)、黄、薄藍、あるいは空摺(からずり)などを摺るだけで、紅板や地潰(じつぶ)しは親方が自ら手を下して任せてくれない。墨板をむりなく調子を揃えて摺ることも難しく、目隈(めぐま)という目のふちの隈どりとともに、親方の仕事となる。

 技術が身につくと「一枚の馬連を懐中にして飛び出せば、何処(どこ)へ往(い)つても、食ふに困らないといふ、腕一本の職業」であった。従って宵越しの金はもたないという、気っぷの良い江戸っ子肌の職人が多かったようである。

 彫師も摺師も、一般的には四十歳で技術者としての寿命が終り、それを越えると仕事に生き生きとしたつやがなくなってくると言い切っているのは、興味深いところである。もちろん人生わずか五十年が標準の頃の話だが……。


◉…幕末の名工たち

 摺師は誰が担当するか未定の場合が多く、画面にその名を記すことは珍しかったが、彫師の場合は周囲の事情が許せば自らの銘を彫り込むことは容易だった。幕末の弘化・嘉永(一八四四〜五四)の頃から明治期にかけての浮世絵版画は、むしろ頭彫りの親方の名が判明することの方が多い。

 幕末の名工とうたわれた彫師として、彫竹(ほりたけ)こと横川竹二郎(生没年不詳、嘉永〜文久〔一八四八〜六四〕の頃に活躍)、彫巳(ほりみ)のこと小泉巳之吉(一八三三〜一九〇六)、さらには彫安(ほりやす)(鬢安(びんやす)の異名をとった)、柳三、その弟子の彫駒(ほりこま)(太田駒吉、一八三四〜八二)など、キラ星の如き名前が列挙できるが、先に掲げた石井研堂の本には、彫駒が語る「彫巳の」についての思い出話を紹介している。ほぼ同世代の、名人が名人を語る逸話として興味深い(挿図19)。

私は午年(うまどし)生れなので、駒といふ名なのだが、巳のは巳年生れだから、私より一つ兄キな筈だ。役者東海道五十三次(豊国〔国貞〕筆)の白須賀(しらすか)(静岡県湖西市)の猫婆を彫つたのは、巳の、十八の時だつた。あの猫婆の長い髪の毛が、ちやんと毛筋が通り、本(もと)はこまかで末広がり、しかもフワリとして一本も乱れて居ない手際、あの百枚余りの続き絵の中(なか)、第一等の出来で、当時大(おおい)に評判されたものだつた。

 時に彫巳の数え年わずか十八歳で、神技のような毛彫りの妙を披露して見せることができたのである。この図が刊行された嘉永三年(一八五〇)当時、浮世絵の商業的な繁栄は頂点に達していた。流行のメディアに優れた才能が寄り集まってくるのは今も昔も変わりはない。彫巳のなどはさしずめ、今日のオリンピック選手にも比せられるような超凡の技術を、彫刻刀を握る片手に宿していた天才であったに相違ない。化け猫の細い髪の毛をしなやかに波打たせるその彫りのみごとさは、たしかに浮世絵史上最高度のものであるに違いない。


◉…北斎好みの彫師

 彫巳のが白須賀の猫婆を彫った年にさかのぼること十五年、天保六年(一八三五)の二月中旬に、当時相模国(さがみのくに)(神奈川県)の浦賀に隠れ住んでいた北斎が、江戸の版元たち、小林嵩山房(すうざんぼう)、英萬笈閣(はなぶさまんきゆうかく)、角丸屋衆星閣(かく(ど)まるやしゆうせいかく)の主人三人へ連名で、大変興味深い手紙を送り届けている。

 江戸から離れて住んでいるため、一通の手紙に様々な用向きをまとめて記したと言っているが、主な内容は、いずれの仕事においても彫師には浅草馬道(うまみち)の聖蔵院寺内に住む江川留吉を雇ってくれるように、というものに他ならない。直前に刊行した絵本『富嶽百景』の実績を満足すべき証拠として挙げ、江川を強く推薦する北斎は、だからといって他の絵師のように「彫代(ほりだい)のしつぽ」を切るようなことは決してしないと誓い、「只々上りの処キツパリと」したいだけなのだとお願いしている。この手紙の署名に「乞食坊主」と肩書を入れた北斎は、物乞いの口上を真似て、「モシ先キの無イ老人を御すくい成され候と思召(おぼしめ)され、右や左りの書林様、アヽヽかないませぬ、ゑかアき(絵かき)には、何(いずれ)も後生(ごしよう)と、御ぼしめし」と嘆願するのである。版本や版画の下絵を提供する絵師にとって、彫師の腕次第で生かされもし殺されもすることを、この年七十六歳の老北斎は、これまでにいやというほど経験していたからこそ、これほどに懸命の願いとなったのであろう。

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挿図19