この手紙を紹介した飯島虚心著『葛飾北斎伝』は、さらに翌天保七年正月十九日付で小林嵩山房に宛てた北斎書簡も紹介してある。これには絵入りで、目鼻の彫りが当世はやりの歌川風にならぬよう、くれぐれも念をおしている。歌川風の鼻や目は「此類(このるい)流行にてもあるべけれど、私はいや〳〵」と、駄々をこねるような物言い口調で文をまとめているものの、北斎にとって死命を制するほどの切実な注文であることが、ひしひしと伝わってくるのである。

 版元にとって、また彫師にとって、概して描き込みの密な北斎の版下絵は、精細で手間のかかること、またあれこれと指図や注文の多いことから、とかく敬遠されがちであったようだ。

 その証拠として、「千絵の海」(カラー図版68〜71、挿図4─8〜13)と題する中判の風景版画揃物があげられる。このシリーズは、海や川など水にちなんだ風景を日本各地に取材したもので、森屋治兵衛を版元として十図刊行されている。本来は浮世絵の世界に通例の十二図が予定されていたと思われるのだが北斎の版刻への執拗なこだわりに、版元や彫師が音をあげてしまい、二図を残して中断したようなのである。なぜそのようなことが推察できるかというと、海に取材したもう二図の版下絵(「品川」と「上総(かずさ)浦」)が現存しており、さらにはそれらと共に、より簡略な版下絵で版行された三図分の、初稿と見られる版下絵(「甲州火振」「宮戸川長縄」「下総登戸(しもうさのぼと)」)も伝わっているからである。それら初稿の版下絵は、一点一画が実に精密、詳細に墨書(すみが)きされており、これでは余りに手間ひまがかかって経済ベースにのらないと、版元から拒否されたものらしいのである。北斎はしぶしぶと、より大まかな図様の版下絵を改めて提供、それら三図分は折合いが付いて出版の運びとなったが、未完に終った二図については、とうとう話し合いがつかないまま、お蔵入りになってしまったものと思われる(「千絵の海」とその版下絵については楢崎宗重『北斎論』参照)。


◉…摺師任せの広重

 北斎はまた摺りにもこだわりが強く、先に紹介した手紙と同じ頃に浦賀から江戸の版元へ届けた別の一通に、摺師に対して次のようなことを注意している(飯島虚心『葛飾北斎伝』)。 「拭(ふ)きぼかし」という摺りの手法は、はじめの二百部ほどはよく出来るものの、その後はうまくいかないので、やめてほしい。それよりも墨の色合に気を付け、薄墨(うすずみ)はできるだけ薄く、中墨(ちゆうずみ)は濃く摺るように、いうならば「しじみ汁とうす墨は随分々々薄く」「納豆汁と中ずみはこい方がよろしく候」と、例のように軽口にまぎらかせて注文をつけている。

 拭きぼかしは、風景版画にとくに効果を発揮した技法で、ライバルの広重はとりわけ多用したものである。

 先ず、木版の平たい部分をぬれ雑巾で拭き水気を与える。その上を一部にだけ絵具を含ませた刷毛で軽く刷き、紙をおろして摺るのである。画面の頂部に加えられる空の「一文字ぼかし」をはじめ、海や川の水のひろがり、あるいは山や丘の頂きからふもとへかけての平面などに、美しくさわやかな諧調が与えられて、風景に微妙な表情がもたらされる、特殊な印刷手法であった。

 自己の表現意志が貫徹することを欲した北斎は、摺師の腕次第であり、しかも版木が汚れた後版になるとうまく調子がでないこの技法を、好まなかったのである。

 これと対照的に、拭きぼかしをはじめ摺師の腕に任せて、版画としての面白みを存分に引き出そうとしたのが広重であった。浮世絵版画が、絵師の個人プレーのみで効果が上がるのではなく、彫師や摺師の腕の冴えが加わってはじめて最大限の魅力を発揮することを、広重はよく承知していたのである。

 たとえば、「あてなしぼかし」などという、摺師に任せっぱなしのぼかし摺りも、好んで多用した広重であった。「名所江戸百景」の内の「駒形堂吾嬬(あづま)橋」(挿図20)の雨雲や、同じシリーズの「猿わか町よるの景」の月にかかる村雲(むらくも)など、一図ごとにそのぼかしの模様が異なって仕上がっているのは、この偶然に頼る技法のせいである。何も彫っていない平らな板に水をたらし、さらに墨や色を一滴たらして広げたところを摺りとるだけの、この人任せ、運任せの「あてなしぼかし」ほど、北斎が嫌い、広重が好んだ摺りの技法はないだろう。二人の個性の違いは、このようなところにもよく現れているのである。


肉筆画の工房制作

◉…ブランドものとしての肉筆画

 浮世絵が、版画という複製手段によって、より大量に、より安く、絵を見る楽しみを数多くの人々に許した庶民向けの美術であったこと、いうまでもない。しかしその一方で、紙や絹に一筆一筆絵筆(えふで)を振るう肉筆画も描かれ、鑑賞されていたことを、忘れてはいけない。先にも述べたように浮世絵の歴史は、その初めから常に、版画と肉筆画が車の両輪のようにそれぞれの歩みを刻み続けたのであった。

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挿図20