日本の伝統的な絵画鑑賞の在り方でいえば、室内を飾る障屏画(しようへいが)(襖や屛風)の大作や、床の間に掛ける掛軸、それに机の上や畳の上でくり広げる小品の巻物や冊子・画帖など、様々な形式の作品が期待された。狩野派や土佐派のアカデミズムから、琳派や円山・四条派、文人画や洋風画など、民間ではやった画派まで、様々な絵画傾向が出揃ってくる江戸時代にあって、浮世絵を愛好する人々が、浮世絵師たちにそうした日常生活をうるおすための絵画作品を期待したことは、当然の成り行きであったと了解されるであろう。少しばかり経済的に余裕のある庶民層はもとよりのこと、大名・旗本クラスの武家に属しながら浮世絵の美に共感した人々もまた、版画にのみとどまらず肉筆画までをも身近かに備え、鑑賞することを欲求したのであった。彼らの願いに応えて、肉筆画制作に積極的に取り組む浮世絵師たちも存在したのである。

 その場合、版画制作のかたわら肉筆画にも精を出した作者と、版画には目もくれず肉筆画のみに専念する画家と、二様のあり方が見られた。前者の好例が浮世絵の開祖の菱川師宣であり、画狂人と自称するほど画道に執心の葛飾北斎であった。逆に肉筆画専門の後者としては、懐月堂安度とか宮川長春とか、版画への着彩が未熟であった初期の頃に、優秀な画家が目立っている。版画のみでしか目立った仕事を残さなかった例としては、ごく一時期に作画期の限られる東洲斎写楽のような特殊な存在があるだけで、その他の浮世絵師は多かれ少なかれ、肉筆画制作にも手を染めているのである。

 その場合、身分の高い人々や裕福な上流町人から受けた特別注文を除けば、一般に肉筆浮世絵が版画にも似た工房制作を特色としていたこと、先述した通りである(「仕込絵の量産」〔一二九頁〕など)。少しでも廉価に、ほぼ等質の内容の肉筆画を提供するには、一人の人気絵師の作品を手本に、ほぼ同様の絵をその弟子たちが仕込絵として量産した方が効率の良いこと、いうまでも無いからである。師宣や北斎の落款が入っていても、それが彼ら指導的な画家その人自身による作画によるものと直ちには信じられないのが、普通なのである。「師宣」や「北斎」の絵は、「イッセイ・ミヤケ」の服や、「フェラガモ」のネクタイなど、現代のブランドものと、規模の大小は別として共通する性質のものなのであった。個人作家の作品というよりブランドものとして流通したのが、一般の肉筆浮世絵だったのである。


◉…シーボルト注文の〝北斎画〟

 浮世絵の肉筆画制作に当たって、人気絵師が仕事を独占するのではなく、弟子の画工たちにも一部を譲って収入の道を開いてあげていたことを、ある時つくづく思い知らされたことがあった。それは、幕末に来日したシーボルトが浮世絵師葛飾北斎に依頼して描かせた肉筆画「日本風俗図」十五図を、かつて日本に里帰りした時に展覧会で見た時であった。私にとって、それはまさに、目から鱗が落ちるような体験となった。

 それらの絵画は、現在、オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵されている。もと同館学芸員のバン・グーリック氏によって報告されているように、一八二六年(文政九)、長崎出島の商館長ステュルレルに随行して江戸までやってきたシーボルトは、「日本で知られている画家のうちヨーロッパ画法に最も近い技法」をもつ北斎に注文して、オランダ製の洋紙に日本人男女の生活風俗を描かせたそのものが、今もなお保存状態よく伝わっているのである。

 鎖国下の当時、しかもヨーロッパの絵画や文化に敏感に反応していた北斎が、江戸石町(こくちよう)の長崎屋に逗留中のオランダ人(シーボルトは実はオランダ人になりすまして入国したドイツ人であったが)から直接に注文を受けたのである。それがいかに名誉のことに思われ、力こぶの入る仕事であったか、容易に察しがつくだろう。

 にもかかわらず、その全十五図を見比べてみると、誰しもに明らかなほど手が違い、出来栄えの差が顕著なのである。私の鑑識によれば、厚手の上質紙に洋風の陰影法や遠近法を意識的に強調した精巧な密画の十一図の内、北斎の真作にふさわしく画中人物がしっかりとした塊量(かいりよう)感を備え、ねばっこくたくましい動勢(ムーブメント)に満ちた迫力ある作品は、わずか三図にしかすぎない。その余の八図は、あえて分類すれば三種の別筆に手が分かれそうだが、いずれも質こそ異なれ描写が平板で、しかも形態や描法に類型的な処理が目立って、とてものことに完全主義者の北斎の筆とは信じ得ない、弟子による代作と見受けられた。その他の、書類などに使われていた薄い用紙への淡彩画四図もまた、北斎風ではあるが、さらに貧相な仕上がりで、北斎配下の画工の筆になることは明瞭である。

 当代一流の日本の画家と見込まれ、外国からの賓客に特別に依頼された晴れがましい舞台にまで、有能無能の別も無頓着なほどに一門の徒弟を率いて登場する北斎であった。

 いわゆる北斎画が多様な様相を示して鑑賞者をとまどわせるのは、後世の単純な偽物(にせもの)が混ざることよりも、弟子たちが先生の同意の下に関わった善意の代作の存在によることが一層多いように思われる。ことはひろく浮世絵の肉筆画一般に共通する問題として、留意すべき事柄なのである。


◉…地方出張の楽しみ

 江戸の浮世絵師も、地方に招かれて出向くことがままあった。絵の好きな有力者の家に逗留して歓待を受け、画料も特別に奮発してもらえるそうした旅興行は、浮世絵師にとって普段は味わえないような息抜きとなり、また実入りの多いものとなった。

 北斎の場合であれば、信州の小布施(おぶせ)における祭屋台(まつりやたい)の天井絵の作画が思い起こされる。当地の豪商であり、絵の弟子でもあった高井鴻山(こうざん)を介して委嘱を受け、八十歳代も半ばに至りながら老骨に鞭打って小布施にまで赴いたのには、北斎を喜ばせる余程の報酬や好意が寄せられたからに違いない。上町(かんまち)と東町(ひがしまち)の、二基の祭屋台が、「波濤図」(二面)、「鳳凰図」(挿図3─100、102)、「龍図」の天井画四面の北斎画を今なお揃えており、北斎館と名付けられた美術館を訪れる多くの観光客の目を楽しませている。江戸の浮世絵が遠い信州の栗の町、小布施に文化遺産として伝えられたのには、すでに遠い昔に、空間的なへだたりをものともしない人と人との交流が実現していたからに他ならなかった。

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