広重の場合に例をとれば、お隣の甲州は甲府における、やはり祭礼のための幕絵の制作がある。

 道祖神(どうそじん)幕といって、甲府の道祖神祭では、辻々に飾り立てる屋台や、有力町人の家の軒先に、有名な絵師に頼んで描かせた幕絵を吊るし、人々の目を驚かせるということがあった。布地には丈夫な麻を用い、縦が約一間(一・八メートル)、長さは六間から八間、あるいはそれ以上にもわたる長大なものが作られたのであった。

 実物の遺例としては、広重描く「東都名所・目黒不動之瀧」(挿図3─125)と題された大作がある。これなどは、縦が一メートル半強、横はなんと一六メートル半にも及ぶ長大なもので、往時の祭にかけた甲府町人の息込みのほどがしのばれるのである。

 江戸名所の他に東海道五十三次の宿駅風景も幕絵に描いたらしい広重は、その依頼に応えて天保十二年(一八四一)に現地を訪れたことが、残された広重日記の記述によって知られる。

 この旅日記の原本は関東大震災によって惜しくも焼失してしまったが、幸いに飯島虚心が『浮世絵師歌川列伝』に全文を載せておいてくれた。それによれば、同年四月二日に自宅を出立した広重は、美しい景色や道連れとの交流を楽しみつつ途中三泊し、五日の夕刻に甲府市内に到着、緑町一丁目の「いせや栄八殿宅」に逗留することになる。翌日さっそく「幕御世話人衆中」と対面して「酒盛(さかもり)」、さらにそれから数日の間は、打合せの合間に芝居見物や酒宴など接待づめにあっている。

 四月十四日には早くも幕絵の画料の手付金として五両を受け取り、そこから四両一分二朱、ほぼ九割がたをその日の内に江戸へ送金している。待ってましたというところなのだろう。

 幕絵の仕事の他にも、端午の節句を控えた四月という季節柄、同月十日には縦二間、横一間の「鍾馗(しようき)」の幟(のぼり)の絵を、同じく「諸葛孔明」の幟絵を十七日と十八日の二日がかりで描いており、前者の方の御礼として「金二百疋(ぴき)、鰻一重」をもらったとも記している。金百疋は金一分、二百疋なら二分で、一両の半分ということになる。それに鰻の蒲焼まで付いてきたのだから、思わずにんまりというところだろう。

 広重のアルバイトは幟絵のほかにも相当に盛んで、十一日に「五尺屏風」、十二日に「襖四枚」、十四日に「襖二枚」、十七日にはその余の襖絵がすべて出来上がり、注文主の辻屋(辻仁(つじじん))へ届けられている。十九日には村幸(むらこう)のために「襖四枚」の作画が続いており、屏風絵や襖絵といった肉筆画の大作を、甲府の有力町人のために次から次へとかきまくっているのである。旅日記は四月二十三日の「辻屋、小鍾馗認(したた)め。」の記事で中断しており、こうした連日にわたる旅先での仕事がどれほどの期間続き、その全収入がいかほどに上ったのかは分からない。おそらくは江戸での扱われ方とは雲泥の開きがあり、まさしく旅興行の実(じつ)が大いに上がったに違いないのである。

 広重の亡き後のことになるが、先に描いた幕絵が破損したため、二代広重を襲名した重宣が指名を受けて、新たに道祖神幕の幕絵を新調するために甲府に出かけることになった。元治元年(一八六四)のことで、その折には初代の門人で相弟子の重政(三代広重)、重春、重次、重清の四人も同行したようである。初代広重と関係の深かった呉服商大木家には、五代目大木喜右衛門夫妻の肖像画や、「鴻の台真景図屏風」六曲一隻などとともに、それら広重の門人たちの小品画を貼(は)り交ぜた屏風が伝来したからである(大木家歴代のコレクションはすべて山梨県に寄贈されている。挿図3─126〜130)。

 初代の甲府への出張の折にも、数人の弟子が同行し、長大な幕絵制作に助手としてかいがいしく働いたに違いないのである。日記の文中には彼らの存在に全く言及がないが、広重を統領として仰ぐ一門の仕事に共同して当たり、師匠とともに地方都市での厚い歓待のおこぼれにあずかったであろうこと、想像に難くない。絵師にとっての旅は、風光の明媚を探ねて自然観照の機会に恵まれるばかりでなく、師弟ともども様々な実利にもあずかれる、誠に有りがたいひとときとなったのである。


絵手本の公開

◉…火事で廃業した画家

 古くからの芸事は、すべて師匠から弟子へ直接伝授され、ほかの人へ、とくに他の流派の人には決して洩らしてはならないと、いましめられてきた。口外無用の秘伝によって成り立った師承関係は、主従関係と同じで、いったん師事した先生は絶対的に尊崇され、生涯従うこととなった。

 絵画の場合も事情は変わらなかった。とりわけ武家の御用画派である狩野派では、先生は殿様、その跡つぎは若殿と呼び、主君のように仕えたものであったと、明治期の日本画の巨匠橋本雅邦が回想している。明治二十二年(一八八九)創刊の美術雑誌『國華』の第三号(同年十二月号)に所載の論文「木挽町画所」で、絵画教育の公的機関であった狩野派画塾の実態を詳細に報告してくれており、参考になる。

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