◉…多彩な内容と周到な構想

 ところで、このロングセラーとなる『北斎漫画』も、当初は一冊限りの企画として生まれたものであった。その初編の内容を点検してみると、神仏にはじまり、説話の主人公や古代の歌仙、そして当代の都市や農村、漁村、山村に住む庶民などの様々な人物像のほか、動物や鳥、虫、魚、貝、そして四季の草花や木々、さらには山や川、舟や橋、家やその聚落などなど、多種多様な絵柄、図像が紹介されている。情景のまとまりを数えると約三百三十図、その内に描かれた人物は総計三百三十四人にものぼるのである。一冊の絵本の中に、いかに多彩な内容が盛り込まれていることか、そのサービス精神には驚嘆させられるばかりである(挿図21)。

 こうした大量で、多様な図像、イメージ群が、旅行中の滞在先、すなわち名古屋の寓居で描かれたということは、一々の図が何らかの種本を参考にして描かれたものでないこと、疑いない。また、秋の間のみの仕事でありながら、四季の草花や、夏の雨、冬の雪といった季節や気象の変化を描き分けているところから、現実の対象を前にしてそれらを写生したというものでないことも明らかである。簡略な筆づかいによる略描ではあるが、物の形や動きの正確な描きぶりを見ていると、画家の、とりわけ北斎という天才の、視覚的な記憶力の確かさ、図像的語彙の豊かさに、今さらながら驚かされるのである。

 そして、「漫画」すなわち「漫然と描いた略画」とはいいながら、一編ごとの構成に、作者北斎の注意が払われていないわけでは決してなかった。各編各冊それぞれに主題や描写方法のまとまりがよく考えられており、個性を与えられていて興味深いが、とりわけ最初の初編には、周到な構成上の計算が働いている。

 先にもあげたように、中国から舶載の木版画譜の一つ、『芥子園画伝』は、日本でも翻刻本が出版されるほど、一般の絵を習う人が頼りにした本であった。その全四編の内の初編は、とくに山水画を描く手本として流行したものだが、北斎はこれを倣って、しかも浮世絵師らしく山水よりも人物を主体に、さらには身近な動植物までも数多く取り合わせてみせたのである。

『北斎漫画』初編を構想するに当たって北斎は、その時代の知識人に好まれた文人画の〝聖典〟『芥子園画伝』を庶民向けに翻案してみせようと、強く意識したように思われる。名古屋は、彭城百川(さかきひやくせん)や丹羽嘉言(にわかげん)といった初期文人画家を生んでいるようにとくに文人画の盛んな土地柄であったから、このような知恵は、あるいは版元永楽屋の主人、二代目東四郎の着想に発していたのかも知れない。

 いずれにもせよ、『北斎漫画』は、江戸の浮世絵師北斎と名古屋の出版人との共同作業から生まれ、その初編の成功により以後も長く版を継ぎ重ねていったのである。


◉…絵の手本、見る絵本

 文化・文政年間(一八〇四〜三〇)、五十歳代半ばから六十歳代を通じての一時期北斎は、読者に絵を描くための手本を提供する絵本、いわゆる絵手本類の版行に熱中している。上述した『北斎漫画』はその代表格として知られるが、その他にも『略画早指南(はやおしえ) 前編』(定規(じようぎ)とコンパスで描く方法を絵解(えとき)する、挿図22)、『画本早引(えほんはやびき)』(いろは四十八文字で絵柄が引き出せる略画集)など、優れた木版の絵手本が数多く発表され、いずれも洛陽の紙価を高めたのであった。

 太平の世が続き、町人や農民といった庶民の間にも、俳句をたしなみ芝居や音曲を好むかたわら、絵を見ることや絵筆を取ることを愛する気風が大いに盛り上がっていた。北斎による絵手本の公開、供給が、そうした膨大な絵画愛好家の存在を背景として、相応の需要を期待する企画であったことは、いうまでもない。しかしながら、庶民を相手に娯楽としての絵を提供し続けてきた浮世絵師北斎は、そうした実用的な効能のみに満足できなかった。見ても楽しい絵本としての魅力を備えることを、教材として機能させるかたわら大切にしたのである。その旺盛なサービス精神は、北斎の絵手本類に見る個々の物や事の描写ぶりと、それらの構成の仕方に、遺憾なく発揮されているのである。

 ふたたび『北斎漫画』に戻れば、人や物をいくつも並列して描くことによる意味や情感の拡大と増幅、形状の誇張による生動の勢いの強調や滑稽の発生、そして、見慣れた日常の人々の姿が、人としてこの世に在ることの根源的な悲しみやおかしさ、なつかしさを伝えるものであることを、改めて私たち読者につきつけ、教えてくれるのである。

『北斎漫画』が、日本の、そしてやがては世界の人々に愛され続けることになるのも、画家北斎の、人や社会を見る目の確かさや優しさに、しみじみと共感させられるからなのだろう。そうした、画家としてあるべき姿を無言の内にさし示している点で、理想的な「絵手本」となっていることに気付かされるのである。


役者絵と美人画

◉…様式美と肖似性

 浮世絵のもっとも浮世絵らしい主題分野といえば、歌舞伎の舞台に取材した役者絵と、遊里における遊女や芸者を扱った美人画ということになるだろう。先にも記したように、浮世絵の主題は時代を下るにしたがって多方面に広がっていったが、終始変わることなく浮世絵の華であり続けたのは、この二つのジャンルにほかならなかった。

 この内の役者絵に関していえば、実在の歌舞伎役者をモデルにするのであるから、当然のことに姿や顔だちが似ているように描かれたかというと、かならずしも初めからそうではなかった。

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挿図21
挿図22