◉…役者絵の「見立」と「中見」

 役者絵に現実感が要求されるようになってからとくに、役者絵を描く浮世絵師は上演される舞台の実際をどのように確かめていたのか、気にかかるところである。その辺りの実状を幕末の頃の例をあげて証言してくれた人がいる。三代歌川国貞こと梅堂豊斎がその人で、大正四年(一九一五)六月の『浮世絵』創刊号で雑誌記者に語った内容は、かつて弟子として実際に見聞した当事者の回想談だけに貴重である。

 「亀井戸の師匠」と呼ばれた幕末期随一の巨匠三代豊国(初代国貞)は、前述のようにかつては「似顔の国貞」とうたわれた役者似顔絵の名手であった。したがって、芝居関係者や版元たちの尊重するところははなはだしいものがあり、制作の依頼と作画の準備に礼を尽くし便宜を図ることも並々ではなかったようだ。その師匠が亡くなる三年前の文久二年(一八六二)に 十五歳で入門した梅堂豊斎は、「似顔絵を画く順序」を次のように述べている。

 先ず芝居の狂言が決まると、中村座(いつちようめ)や市村座(にちようめ)などから狂言作者による「画組(えぐみ)の下書(げしよ)」が、亀井戸の三代豊国の許へ届けられる。一つの狂言につき七、八枚のそれらの下書を、年少の弟子が方々の版元のところに持ち歩き、注文を取って廻ったものだという。朝の内から天保銭一枚(百文)をもらって師匠宅を出て、昼時に「しがらき」という店で三十二文のお茶漬(ちやづけ)を食べ、残りのお金で焼芋を買ったなどと、きわめて具体的な思い出話が挿入されているので、梅堂自身が入門して早々の小僧時代に、幾度もその役を仰せつかったことがあるのだろう。

 各版元では、見せられた画組の下書に直(じか)にしるしをつけ、注文を出すわけだが、その折にも互に譲り合って、いたずらに張り合うことはなかったという。証言は、次のような語り口でその間の様子をいきいきと伝えてくれている。


たとへばそれが忠臣蔵なら、コリャア皆よい所を取つてしまつたな、三段目にしようと思つたら山口屋に取られたから仕方ない、藤慶(ふじけい)が六段目を取つているが腹切(はらきり)だからそいつを避(よ)けて身売りの所をやつてもらをふ、また平野屋ぢやア、七段目か、ヂヤアこつちは九段目にしよふ、と云つた工合に決して同じものを注文しない、こゝが昔は義(ぎ)が堅かつたので、この狂言にしろ、国芳の武者にしろ、片方で一の谷を出せば一方では曾我の討入と云つたように、いくら他で評判がよく、売れるものでも、それを真似すると云ふ事をしなかつた。


 今日の商戦の「仁義なき戦い」ぶりを見ていると、夢のような、おおらかでいさぎよい江戸の商人(あきんどだましい)魂といったものに触れて、すがすがしい気分にさせられる。

 さて、そうして注文が出揃うと、次は作画にかかるわけだが、その際に、「見立(みたて)」と「中見(なかみ)」という、二通りの仕方があったという。

「見立」とは、型ものと称されたお定めの狂言で衣裳その他すべて在来の型で良いというもので、これならば上演以前に作画に取りかかることができた。

「中見」というのは、新狂言か、型ものであっても役者のいでたちを変えてみようとする時などに、開演後に実際の舞台を確かめて作画する場合である。この中見の役には、見習い、中僧(ちゆうぞう)などの弟子が派遣され、時には師匠みずからのお出ましということにもなったという。用意された桟敷席で鬘(かつら)から着附、持物の細部に至るまで詳しく書き留め、分からない所があれば楽屋にまで見に行ったという。そのようなわけで、中見の場合には十日目位からでないと完成した役者絵版画を売り出すことができなかったとのことである。

 上方役者が下ってきた場合などは、師匠(三代豊国)の所へ土産物や贈り物をもってわざわざ挨拶に来た。師匠は応対の間にその役者の特徴を見ておき、やがての作画の折の参考とした。その他の役者たちも、似顔絵が人気に影響するので、たとえ名題下(なだいした)と呼ばれる一流であってもつけ届けを怠らなかったという裏話までもが披露されているのである。

 人気絶頂の浮世絵師の権勢の高さとともに、役者絵制作の実際が手にとるように理解されるので、少しく詳細に梅堂豊斎の回顧談を紹介させてもらった。浮世絵の歴史の最終段階には、かくもシステマティックに版画制作の手順が整ってきていることに、気付かされ、感嘆させられるのである。

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