◉…瓜二つの評判娘

「向う横町のお稲荷(いなり)さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでおせんの茶屋へ、腰をかけたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見たらば、土の団子か、米の団子か、おだんごだあんご……」と、遠い昔、母や姉に教わった手まり唄が、今もふいに浮かんできて、甘酸っぱい思いに迫られることがある。この「おせん」が、さらにさらに時代をさかのぼった十八世紀後半の明和年間(一七六四〜七二)に鈴木春信の錦絵に描かれた江戸の評判娘であると知ったのは、大学生になって美術史を学ぶようになってからである。そしてついにその春信を卒業論文のテーマに取り上げ、今日に至るまで縁がつながっているのだから、人生というものは分からない。

 思わず個人的な感慨にふけってしまったが、この、上野の山の奥、谷中(やなか)の笠森稲荷(かさもりいなり)の社前で茶を供した水茶屋、鍵屋(かぎや)の娘お仙は、浅草(あさくさ)の浅草寺境内(せんそうじけいだい)の楊枝店(ようじみせ)(今ならば化粧品店)、本柳屋のお藤と共に、江戸中の人気をさらった美貌の町娘であった。若き日の大田南畝(舳羅(ちくら)山人)は、『小説売飴土平伝(あめうりどへいでん)』という狂詩文の版本に「阿仙阿藤優劣弁(おせんおふじゆうれつのべん)」という戯文(げぶん)を添えて、二人の美女の容貌を比較し、論評している。それによれば、お仙は「琢(みが)かずして潔(きれ)いに、容(かたち)つくらずして美なり」と化粧や髪飾りに頼ることなく、「天の生(な)せる麗質、地物(じもの)の上品(じようひん)」をそなえているとする。一方のお藤は、眉を淡く掃き口紅は濡れたように化粧上手、象牙の櫛(くし)や銀の簪(かんざし)で髪を美しく飾って、隙(すき)がない。俗にいう「玉のような生娘(きむすめ)とはそれ此れ之(これ)を謂(い)うか」と嘆賞する。両者の美の雌雄は決しがたく、人気も二分されて軍配の上げようがなく困ったところに王子稲荷大明神が現れて裁定を下し、決着する。お藤の方は浅草という繁華の地に在るのに対して、お仙の方は谷中の端(はし)の日暮里(ひぐらしのさと)という郊外で、しかもいち早く評判を取ったことから、お仙が勝ちとされるのである。

 南畝も文中で言っているように、読売り、双六、絵草紙のほか、歌舞伎の舞台に上がるなどして、大変な評判となったこの二人を、春信はしばしばモデルとして錦絵に登場させている。ところが、それらの錦絵や、『小説売飴土平伝』の挿絵を、いくら比べてみても、お仙とお藤の容貌の差を認めることは難しい。というよりも、春信には、はなから描き分けようとする意欲をもちあわせていなかったはずなのである。二人は、その店の様子からお仙とかお藤とかを見分けられるのであって、鼻が高いとか低いとか、目がぱっちりしているとか二重であるとか、具体的な特徴を伝えてくれようとはしていない。


◉…一枚の絵に二人のモデル

 そのことは、歌麿の場合でも同じであった。「当時三美人」と題して、難波屋お北(浅草寺随身門脇の水茶屋に出ていた看板娘)、高島屋お久(両国の煎餅(せんべい)店高島屋の娘)、それに富本豊雛(とみもととよひな)(富本節の名取の吉原芸者)の三人を一図にまとめた間判(あいばん)錦絵がある(挿図23)が、微妙なニュアンスの差が口元に表されているものの顔の目鼻立ちにはほとんど変わりがないのである。かつて私の学生の一人が、画集に原寸大の大きさで紹介されている歌麿の大首絵を対象に、その顔の輪郭をトレーシング・ペーパーに重ね写してみたと、報告してきたことがある。向きが逆ならば紙を裏返してトレースした由だが、顔の目鼻立ちをとらえた線はほぼ重なり合って、やや太い線になるのみであった。お北もお久も、別にその器量の細かな差異について描き分けられていないことは一目瞭然であり、予測していたこととはいえ驚かされたことがある。

 こうしたわけであるから、同じ版画でモデルの名を入れ換えただけの絵が平然と売られることがあったのも、それほど異とするには足りないだろう。その一例として歌麿の「当時全盛美人揃」の二図をあげておく。

 黄つぶし(黄色で背地を一面に摺ってある版画)の画面いっぱいに吉原で全盛の遊女を一人ずつその座像でとらえたこのシリーズは、はじめ「当時全盛似顔揃」と題して六図を発表しているように、写楽の役者似顔絵を意識して企画されたものであった。途中で「似顔」とするのに気がひけてか「美人揃」と改題、全部で十図が出揃ったわけだが、その一図「若松屋内若鶴」(挿図24)は、後にどういう事情からか当の花魁若鶴とお付きの禿(かむろ)二人対(つい)の禿)の名を削り取り、埋め木をして新たに「玉屋内しづか」そして彼女付きの禿たちの名前を加えて版行するに至っている(挿図25)。初版において立て膝の足の部分が着物の裾からのぞいていたのを、後版ではお行儀が悪いと嫌ってか着物で隠すように改版しているが、そのほか、とくに顔の描写については何らの変更も認められない。こうした作例の存在は、当時の歌麿の美人画に対する考え、あるいはその美人画を身銭を切って買い、楽しもうとする顧客たちの期待、それらのいずれもが、個々のモデルの容貌の特徴には関心が向かっていないことを、如実に証明してくれるのである。


◉…型による美人表現

 浮世絵の美人画にあっては、像主(モデル)の女性がいかなる顔立ちをしているかということよりも、どの浮世絵師の美人の型(タイプ)で表されているかということの方が大切だったのである。寛政年間(一七八九〜一八〇一)の美人画の第一人者と、自他ともに認めていた歌麿にとっては、自分の「歌麿型」こそが売り物なのであって、事実「錦織(にしきおり)歌麿形新模様」などというタイトルを付けた揃物すら発表しているほどである。その一図において「美人画の実意」をかき与えると豪語した(同シリーズ「文読み」の自賛)歌麿は、別の「白うちかけ」図の賛語で次のような趣旨のことを言っている。

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挿図23
挿図24
挿図25