私の「活筆(かつぴつ)」によれば、どのように簡略に描いたとしても女性はみな西施(せいし)(中国古代の美女)のように美しく、魅力的なものになる。一方、下手な絵かき(「庸画(ようが)」)の手にかかればいかに色を多く重ねて描いても醜い容色にしかならない。従って私の画料は鼻とともに高く、千金(せんきん)の太夫(吉原遊廓にあって最高位の遊女)にも比べられて良いだろう。辻君(つじぎみ)(路傍で客を誘う最下級の売春婦)のような安い画料で済む絵師に作画を依頼する板元(はんもと)たちにこの絵を見せて「鼻ひしげ」(鼻をつぶす、面目を失う)させてやりたい。

 歌麿という人は、女性の絵をかけばたしかに美しく、人の心を慰めてくれるが、文章の方は辛口というか毒舌というか、えげつないほどにおのれを自慢してはばかるところがない。それほどに、自分の作り上げた女性画像の典型に自信があったわけなのだろう。

 いったいに我が国では、古来風貌の個別的な違いを云々したり、表現したりすることに興味がないようで、先の大田南畝の「阿仙阿藤優劣弁」にあっても、具体的な記述はほとんどない。黄表紙や洒落本などの戯作についてみても、衣服などの身なりについては詳しく描写しても、美男美女といいながら「あっぱれ色男」とか「優れて美しき女中」とかいうだけで少しも具体的でない(『色男其所此処(いろおとこそこでもここでも)』)。小野小町や楊貴妃、あるいは先の西施などに比べられるほどの美人といわれても、どう想像したらよいか取りつくしまもないのである。

 要は、能面や文楽人形の使いまわしのように、人物表現を類型にあてはめるのみで、個別的な肖似性や表情の機微を求めようとしなかったのである。明和年間の江戸の美女たち、お仙やお藤ばかりでなく湯島天神の巫女(みこ)のお波もお初もみな、春信美人の型によって描かれれば人は争ってその姿絵を買い求め、恍惚としてそれに見入ることができたのである。天明(一七八一〜八九)の清長美人、寛政の歌麿美人、栄之美人、化政・天保期(一八〇四〜四四)の北斎美人や国貞美人など、その折々の美人のタイプが絵師たちの作り上げた理想の容姿で代表され、記憶されることとなった。歌は世につれというが、浮世絵美人も世につれ、絵師につれ、そのタイプがめまぐるしいほどに移り変っていったのである。


◉…泣いて怒った花魁

 幕末、明治初期の洋画家、「洋画道の志士」(芳賀徹『絵画の領分』)ともうたわれる高橋由一(ゆいち)(一八二八〜九四)に、「花魁」というきわめて印象深い油絵作品がある(挿図1─26)。芳賀氏の名文を借りてこの一風変わった花魁の図の特徴を確かめておこう。


 明治五年(一八七二)という遠い昔の絵である。それ以後今日まで、この日本でも数えきれぬほどの婦人像が描かれ、私たちもそのうちの幾十かの作品は見てきているはずだが、そのなかでこの上手とはいえぬ「花魁図」が放つ妖(あや)しい美しさはいささかも衰えぬどころか、かえって魅力をましてくるようにさえ思われる。見る者の眼に媚(こ)びるところはおよそないような稚拙な筆致なのに。……
 人に媚びるどころか、花魁は頬骨のとんがりもあらわに、ものうく呆(ほう)けたような表情だ。べっ甲の筓(こうがい)や簪(かんざし)を何本も重そうに頭にさし、ほつれた髪は襟もとまで垂れたまま、衣裳だけは立派ななかに埋れるように坐っている。……由一はむきになってこの中年増(ちゅうどしま)を不美人に仕立てているようにさえ見える。人にそう指摘されれば、彼はぶっきらぼうに「ただ、ありのままだ」と答えたのであろう。……


 この「ただありのまま」に描かれた由一の花魁の図ほど、様式という約束事の中で美化されてきた浮世絵美人画と対極をなす存在はないだろう。浮世絵を愛して止まなかった江戸時代人にとって、このような遊女の実像をあからさまに伝える絵は、許しがたいルール違反であったに違いないのである。

 事実、この絵のモデルとなった吉原遊廓稲本楼の小稲という花魁は、出来上がった絵を見て「妾(わらわ)はこんな顔じゃありません」と泣いて怒ったという(由一の弟子彭城貞徳(さかきていとく)の後日談)。

 遊女が絵にかかれるといえば、浮世絵の錦絵のように人形にも似て美しく理想化され、様式化されるという一般的な了解があった。その堅い通念をよそに実在の人に肉迫し、彼の他の作例、たとえば有名な「鮭(さけ)」の絵と同じように、肌や衣の凹凸に明暗の陰翳(いんえい)をつけてその実像をむげにあばき出してしまったのだから、気の良い小稲さんが怒るのも無理なかったわけである。このエピソードは、前近代と近代の人の美への意識が劇的に交叉し、衝突した一つの記念的な〝事件〟を伝えるものであった。

 浮世絵美人画はなお明治に入ってもしばらくは続く。それらは洋紅(ようべに)や紫などの鮮烈な絵具を好んで使い、開化の風俗に装う婦女なども登場して新時代の空気を取り込んではいるが、高橋由一の示した近代性、写実性を追求するものとはついにならなかった。月岡(大蘇(たいそ))芳年(よしとし)も尾形月耕(げつこう)も、江戸の名残りを受け継いで新時代の様式をあみ出し、さらに芳年の孫弟子である鏑木清方(かぶらきよかた)らへとその余香を伝えていくのである(挿図1─27)。明治以降のいわゆる日本画に美人画の一分野が存続することになるほど、浮世絵の人物表現の伝統は根強く人々の心に棲(す)みつき、今なおまとわりついて離れにくいものがあるようだ。


 浮世絵は、「浮世」の「実相」を報告する時代の証言として機能しつづけたが、その実相はあくまでもカッコ付きのものであり、甘美な夢と憬れの味付けを忘れることはなかった。浮世絵のメイン・テーマである役者絵と美人画という、浮世の人物表現においてはとくに、その傾向が色濃く見て取れるのである。

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