一…浮世絵とは何か

不易よりも流行

-浮世の絵-

 浮世絵は、江戸時代の江戸(現在の東京)で発達した庶民的な絵画である。ところで、この「浮世絵」という言葉が登場するのは、そう古いことではなく、浮世絵の開祖菱川師宣(もろのぶ)(?~一六九四)の新しい画風が江戸で評判を呼ぶ天和年間(一六八一~八四)の頃であった。ちょうどその頃、大坂の井原西鶴によって浮世草子という小説のスタイルが開かれているが(天和二年に『好色一代男』刊)、この、東西軌を一にして流行し始めた浮世の絵、浮世の草子(小説)という場合の「浮世」とは、本来どのような意味内容を盛り込む言葉だったのだろうか。
 すでに早く『浮世物語』(寛文五年・一六六五頃の作・刊と推定されている)という小説の冒頭で端的に述べられているように、この世の中は思うことのかなうことがない辛気(しんき)なものだからこそ憂世(うきよ)と言ってきたものを、一寸先が闇の世だからこそ「当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうちむかひ、歌をうたひ、酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり切り(無一文)も苦にならず、沈み入らぬこころだての、水に流るる瓢箪(ひょうたん)のごとくなる」と、この頃には逆に、明るく楽しむべき浮世と達観されるようになってきた。英語で「フローティング・ワールド」(floating world)と訳されたのも、この「浮きに浮い」た世の中というところからきているわけである。
 江戸時代前期の約一世紀、すなわち十七世紀は、日本の歴史上も稀なほどの高度成長期で、統一政権下の平和の到来、土木、治水、農耕をはじめとする諸分野の技術革新、水路、街道や都市の整備にともなう流通、商業の発達など様々な要因から、武家のみならず農民や町人等の庶民層までも、繁栄を謳歌し、享楽に酔い痴れることも許されるようになったのである。もはやこの世は仏の導きによって厭い離れるべき憂き世の中とばかりも思われず、経済的な余裕の中で、つかの間の仮の世の中だからこそ浮き浮きと気楽に暮そうという考え方が支配的になってきたのである。いま現在の世相や風俗を肯定的に評価するところから、浮世の言葉には、単なるこの世とか現世という以上に、さらに、いっときも休まずに流れ変化する中での今様、当世風(現代風)といった意識をも併せ持たせるようになったわけである。
 この彼岸(ひがん)の理想よりも此岸(しがん)の現実に即し、過去や未来よりもただひたすらに当世風を追う「浮世」の絵であることこそが、浮世絵のもっとも本質的な姿であったことは確かである。だからこそ、すべての浮世絵師たちは、つねに時代の先端をいく風俗や話題に対して旺盛な好奇心を抱き、敏感に反応したのである。また、その表現方法においても、新鮮な趣向をこらし、あるいは新奇な描法を積極的に試みるなど、鮮度を競い合ったものである。要するに、武家たちが信じようとした不易(ふえき)(易(か)わらない)の価値よりも、流行する(変化する)様相を示すことが重視されたのであった。
 ただし、「浮世」の語が、いつも無色透明の今、現在を意味するだけではなかったこと、いうまでもない。享楽主義的な人生観を背景に、好色の淫風がときに濃くあるいは淡く吹き渡る現実こそが、浮世絵の世界たるにもっともふさわしい「浮世」にちがいなかった。
 そうした意味での当時の「浮世」としては、遊里と芝居町という二つの悪所(あくしよ)(悪所場(あくしよば))が代表的な存在であった。厳格な身分制の枠組の下で、武士と町人の別もなく、それぞれがそれぞれにしばられている日常の倫理やしきたりから離れて、本音の情意や美意識を自由に解放できた空間が、この二大悪所であった。江戸時代には、こうした悪所を土壌として美術や文学、演劇や芸能などの豊かな実りがもたらされたことは周知のとおりだが、浮世絵などはその最たるものの一つであった。浮世絵が、遊女や芸者を主人公とする美人画と歌舞伎役者を描く役者絵を二本柱として展開したのも、当然の成り行きだったといえるだろう。

-「跡かたもなき絵かき」の横行-

 享保年間(一七一六~三六)から宝暦年間(一七五一~六四)にかけて、約半世紀にわたる長期間、浮世絵界で一流の座を張り通した絵師がいる。錦絵という多色摺(たしよくずり)の木版画が一般化する以前の、いわゆる初期浮世絵時代の大家で、出版元(版元(はんもと))をも兼ね、浮世絵版画の技術や表現形式にさまざまな改良と工夫を試みた奥村政信(一六八六~一七六四)が、その人である。彼は、西洋絵画の透視遠近法をいち早く採用して浮絵(うきえ)という新ジャンルを始め、さらには、柱絵(はしらえ)(幅広(はばひろ)柱絵という極端に縦(たて)に長い画面形式(約七〇×一七センチメートル)を工夫し流行させたと、「浮絵根元」「柱絵根元」、などという冠称をことさらに署名に加えて、自己宣伝にこれ努めた。そればかりか、「紅絵(べにえ)根元」とか「江戸絵一流元祖」とか、そもそも浮世絵の創始者なのだと誇大な僭称をしてしまうほどの、唯我独尊の人であった。
 その政信が、延享五年(一七四八)一月中村座で上演の「飾鰕鎧曾我(かざりえびよろいそが)」に取材し、版行した役者絵「尾上菊五郎の曾我五郎と沢村小伝次の化粧坂(けわいざか)少将」(細判紅摺絵)の画中に、次のように日頃の鬱憤(うつぷん)を爆発させている。


私方の絵下(えした)を直(じか)に彫(ほり)、跡かたもなき絵かきの名印付(つけ)、にせるい重板(じゆうはん)致候、 御しらせ申候。 正名奥村正筆、御召可(くだ)レ被(さる)レ下(べく)候。以上。

次のページへ >>