たとえば『御堂関白記』には、産養に奉仕する藤原道綱、藤原能信の装束について、「大夫の御前、権大夫能信等の御衣、皆風流有り」(長和二年[1013]七月八日条)という記事が見られ、風流の語が私的領域の突出に対する心のざわめきとともにあることを感じさせる。ここには公人としては華美や奇趣を有り得べきすがた(規矩)からの逸脱として忌避しつつも、同時にその美に心惹かれる私人としての道長の感情がうかがわれるのである。美麗な飾りの装束を身につけてきた道綱や能信に対する驚きや反発、共感といった心の揺れ動きが、日記に「風流有り」と書き留めさせたのではないだろうか。

 趣向を凝らすということは、みやびやかな心情の発現であると同時に、示差性への傾倒でもあろう。装束の風流とは、趣向の競い合いによって〈私〉の存在を可視的に証する行為といえるだろう。それが公的な場に持ち込まれるとき、それは公的世界に対する私事の侵食、規矩からの逸脱という性格をあらわにする。だがそのような私的領域の突出として忌避しつつも、審美的には、是認せざるを得ない趣向の力、あるいは富貴の美、みやびの美こそが、風流を風流たらしめるのである。

過差と奇巧

 善美をつくした美麗過差な王朝の風流は、貴族生活を鮮やかに彩っている。歌合や物合といった遊び、法華八講などの法会、御霊会や稲荷祭など祭礼、算賀や産養、入内の祝宴、大嘗会や節会といった宮廷行事。王朝の記録や物語文学には、そうした折々の美麗で洗練された意匠の装束や調度、造り物の奇抜な趣向がことばを尽くして記されている。行事や遊宴の場は、金銀珠玉錦繡珍木の数奇と美麗を尽くし、耳目を驚かす趣向が競い合わされたのであった。

 たとえば、天徳四年(960)の内裏歌合を準拠とする『源氏物語』絵合での、「左は、紫壇の箱に蘇芳の華足(けそく)、敷物には紫地の唐の錦、打敷には葡萄染(えびぞめ)の唐の綺なり。童六人、赤色に桜襲(さくらがさね)の汗衫(かざみ)、衵(あこめ)は紅に藤襲の織物なり。姿、用意などなべてならず見ゆ。」といった富貴の物尽くし。また、長元八年(1039)の賀陽院水閣歌合での「右の文の台、沈の籠(ませ)ゆひたるなかに、銀の瞿麦(なでしこ)いみじうしげく咲きたるに、蝶ぞ十ばかりゐたる……人々これには歌いづこに書きたるぞと問ひたまふもいとをかし。蝶の翅のしたに書きたるなり。」に見る奇趣。

 わたくしたちは、今めかしき美、をかしき趣向の心ばえを求めた王朝の物好みの精神が、いかほど絢爛たる装飾美の世界を造りあげたかに思いを巡らさねばならない。それは絵所や造物所(つくもどころ)といった宮廷工房の職人や貴族達の用命をうける職人達の手技に支えられるものではあったが、宮廷人の鋭敏な美に対する感覚もまた、彼らの技術を領導し、王朝美のモードを方向付けたのではなかっただろうか。ときには、みずからデザインし、こまごまと職人に指示を与えたにちがいない。薫は、匂宮の若君の五十日(いか)の祝いに、「世の常のなべてにあらず」と、道々の細工師を集め、沈・紫壇・白銀・黄金といった高価な材料で格別の贈り物を造らせるのであった(『源氏物語』宿木)。これは物語上の架空のことではあるが、他と異なる意匠、贅沢で華麗な素材、そして物の上手達の技術、すべてを統合してみずからが思い描く美を造りあげようとする情動は、当時けして珍しいものではなかっただろう。宮廷人の多くは、美の創造に積極的に関わることによって自己のアイデンティティーを確認していたといってもよいかも知れない。華やかな催し事の場は、貴族達にとって自身の感性や趣味を競い合う場であったのである。

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