はじめに

 794年の平安京遷都に始まる平安時代は、日本の古典文化の完成期といってよいだろう。規範として屹立する中国文化を学び吸収し、それを馴化させ変容させるなかから、〈中国=漢〉を相対化する〈和〉の実質を創りあげていった時代である。この時代に形成された物の感じ方・考え方――美意識――は、以来、日本文化の基層に底流として流れ続けている。うつろい行く自然への感興、歳時のリズムと不可分な生活文化といった親和的な自然観、日本の風土に密着したこまやかな心情。おそらく現代のわたくしたちもそれと気付かないまま、日々、折々の生活の中で、平安の美学を生きていることがあるのではないだろうか。

 さて、院政期(1086~1192)を含めるとおよそ四百年もの長きにわたるこの時代の文化を一言で語ることは容易ではない。交通網の整備や経済の発達は、地域的にも階層的にも文化に一段と拡がりを与えた。『今昔物語』や『新猿楽記』には、都や地方のさまざまな人々の生活が活写されているし、かの『源氏物語』のなかにも庶民生活をうがかうことができる。文化はひとにぎりの宮廷貴族だけのものではなく、都や在地の官人やさまざまな生業の庶民たちによっても支えられるものであった。

 とはいえ、この時代のもっとも注目すべき特色としては、やはり和様の形成と貴族文化の開花をあげるべきだろう。平安後期と院政期、すなわち摂関政治と院政が展開した時代を、特に王朝時代と呼ぶことがあるように、10世紀半ばから12世紀末にかけ、とりわけ宮廷を中心に繊細で優美なみやびの文化がおおいに展開した。和歌や和文物語が盛行し、歌合や物合といった遊び、盛大な法会、結縁経の経営など、過差美麗の風流の催しが頻繁におこなわれた。権門(大貴族)や院、女院たちの荘園領は拡大し、摂関家や院のもとには莫大な富と権力が集中した。そのような富と権力を基盤に、盛んな造寺造仏、風流の遊宴、善美を尽くした法会、結縁経の営みなど、富貴の美、競合の美が構築されたのである。藤原頼通の宇治平等院(1053年)の建築や仏像、白河上皇六十賀の贈り物かとも言われる本願寺本三十六人家集(1112年頃)、『源氏物語』の現存最古の絵画化作品である徳川・五島本源氏物語絵巻(1140年代?)。宗教美術、世俗美術を問わず、私たちはこの時代に贅沢な貴族的文化のみやびな結晶を見ることができる。そのような富貴と洗練の王朝美の集大成、最後の大輪の花が、厳島神社に伝来した平家納経である。

風流とみやび

 ところで王朝の文学には、しばしば〈みやび〉ということばが登場する。これは鄙び(里び・田舎び)に対する宮び・都びを原義とすることばであって、本来は洗練された都ぶり、宮廷風のふるまいや感興を指すものであろう。それが『伊勢物語』初段の「むかし人はかくいちはやきみやびをなむしける」の例に見るように、〈をり〉を知るところに根ざす私的な感興、こまやかな感受性のあらわれを対象化することばとなり、ついには優しく貴(あて)な美として、〈唐めく〉美を相対化していったと思われる。

 いっぽう〈風流〉ということばは、時代によってその内容を変えているので、なかなか難しい用語である。16世紀に編纂された『日葡辞書』では、「Fǔriǔ:優美な衣服など見た目に趣があって優雅なこと」「Furiǔ(Fǔriǔ):踊り)」とあるし、現代では芸能用語の風流(ふりゅう)よりも趣深い風情という意味の風流(ふうりゅう)のほうが一般的で耳慣れた用法であろう。すでに風流の語は、『万葉集』にも見られ、そこでは洗練されたふるまいなどを指して用いられている。平安時代に入ると、漢詩文の文雅や庭園の数奇、殿舎や服飾・調度の飾りや趣向に対して用いられるようになる。以上、風流の語は、みやびの概念にちかい審美的な用語といえるが、とりわけ、注目すべきことは、ほかと異なる意匠、贅沢で華麗な飾り、機知に富む趣向などによって際立つ洗練美への驚きの感情がその背後に見え隠れしていることである。

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