ところで、この版画化予定作品のリストの内訳をみると、古代神話の主題が2点、肖像画が1点(項目は一つだが、漠然と何人かの肖像を考えていたらしい)、あとはすべて宗教的主題である(旧約聖書の「スザンナと長老たち」のように、厳密な意味では宗教的といえないものも含まれるが)。これはルーベンスの油彩作品の主題別の内訳をそのまま反映しているわけではなく、油彩では宗教的主題と世俗的主題(神話・寓意・物語・歴史等)の割合は4:3といったところだろう。この時点で風景画が挙がっていないのは、まだ風景画がルーベンスの創作活動の中で後年ほど大きな割合を占めていなかったということで説明がつく。実際に、ルーベンスの風景画に基づく版画連作の制作は彼の最晩年に企画され、完成はその死後になった。しかし、宗教画偏重の傾向は、ルーベンス工房で作られた複製版画にのちのちまで一貫して認められる特徴である。これはいったいどういうわけだろう。

 一つの仮説として、ルーベンスが自作を複製するにあたり、買い手の需要を考慮した可能性が考えられる。版画の顧客は上流の趣味人ばかりでなく、中産市民層にまで及んでいたと推定され、こうした人々にとっては、鑑賞に古典文学の教養を要する作品よりは、聖書や聖人伝に取材した作品のほうが遥かに親しみやすかったに違いない。のみならず、宗教主題の版画は、カトリック圏では個人用の礼拝像の役割を果たしていたかもしれない。

 もちろん、ルーベンス工房で制作されるような精巧な銅版画は、庶民のための信心画として誕生した初期の木版画とは異なり、気安く壁に張り付けておけるほど安価なものではなかっただろう。当時、高級な版画は紙挟みに保管され、ときおり手にとって鑑賞されるのが普通だった。しかし、同時代のオランダの肖像画や室内画の背景に、版画を掛軸のように加工して壁に吊るしたものが描きこまれている例(図11)がある。オランダはプロテスタント国だから、これらは宗教版画ではないのだが、フランドルでは宗教版画を同様に壁に飾ることがあったのではないか。事実、ルーベンスの版画の中には、初めから個人用の信心画として作られたように見えるものもある。対応する油彩画が知られておらず、表現も個人に直接向かい合うような親密さを湛えた、スヘルテ・ア・ボルスヴェルト版刻の《聖母子》(図12)が好例であるが、同じ版画家による《噴水の傍らの聖母子》(図13)もこれに近い性格をもっている。また、《ペスト患者のためにキリストに祈る聖ロクス》(図14)は、祭壇画を写したものであるが、「聖ロクス、われらのために祈り給え」という銘文が添えられ、刊行も実際にペストが流行した1626年であるところをみると(同年他界したルーベンス夫人イサベラも、おそらくこの病気の犠牲者だった)、この版画が単に「芸術作品」として鑑賞されるためだけに制作されたとは考えにくいのである。

 ルーベンス工房における版画制作のやり方は、かなり具体的にわかっている。まず版画化しようとする油彩画(油彩画の制作と版画化とは必ずしも連続していないので、原画自体でなく、工房に残された原画のための油彩下絵がモデルにされていることもある)を線描表現に置き換えた摸写素描が作られる。通常、この過程は工房の助手(1610年代末にルーベンス工房の筆頭助手だったヴァン・ダイクによる作例が知られる)ないし版画家自身に委ねられた。この素描をもとに版画家が版を刻むと、試し刷りやカウンター・プルーフ(刷りたての版画に紙を載せ、プレスして、生乾きのインクを写しとったもの。原画および原版と構図の向きが同じになるので、原版修正の指示を描き込むのに都合がよい)にルーベンス自身が加筆修正を施し、版画家がこれに従って版面に手を加える。インクや白のグワッシュによるルーベンスの修正の入った制作途上の刷りは少なからず現存しており、版画制作がまぎれもなくルーベンスと版画家の共同作業だったことを明らかにしている。しかも、ルーベンスの版画制作への関与は、原画の正確な再現を目指した指導に止まらなかった。ときには自分自身で下絵を制作し、版画の標準的な形に合わせて原画の構図を修正したり(図1516)、版画化にあたり新たに構想を練り直したりしている(No.11)。基本的にはすでにあるデザインのヴァリエーションとはいえ、ルーベンス工房の版画制作は機械的な縮小コピーの生産ではなくて、ルーベンス自身にとっての新たな創造の契機を含みうるものであった。

  • 図15 パウルス・ポンティウス版刻
    《神殿への奉献》
    1638年、銅版画、63.4×48.8㎝
  • 図16 ルーベンス《神殿への奉献》
    (三連祭壇画《キリスト降架》の右翼)、
    1611~14年、板・油彩、
    420×150㎝、
    アントヴェルペン、大聖堂
<< 前のページへ 次のページへ >>
図11
ダフィット・バイリー
《クリスティアン・
ローゼンクランツの肖像》
1641年、板に油彩、
デンマーク、フレデリクスボリ城
図12
ルーベンス原案、
スヘルテ・ア・ボルスヴェルト版刻
《聖母子》 銅版画、27.5×21.6㎝
図13
ルーベンス原案、
スヘルテ・ア・ボルスヴェルト版刻
《噴水の傍らの聖母子》
銅版画、28×23.9㎝
図14
ルーベンス原画、
パウルス・ポンティウス版刻
《ペスト患者のために
キリストに祈る聖ロクス》
1626年、銅版画、45.7×35.8㎝