同じ頃、フランスでは美術館の歴史における画期的出来事が起こっていた。今日ルーヴル美術館として知られる大規模な公共美術館の成立(1793年)である。すでに、18世紀半ばから、君主のコレクションを公開することは西欧の一部で行われてはいた(優秀な美術家の育成のため、良い手本を見せることが主な狙いだった)。しかし、蒐集の所有者が君主から「国家」に変わったのは画期的な展開といわねばならない。次に述べるように、規模の点でも、この美術館は群を抜いていた。
 1789年の革命の勃発によって、フランス王室の蒐集は国有化され、教会や修道院に属する美術作品も革命政府のものとなる。さらに、1794年以後ヨーロッパ諸国を侵攻したフランス軍は、フランドル、オランダ、イタリアなどから著名な美術作品を接収してパリに持ち帰った。これらはルーヴル宮殿内で公開される。フランス国民ばかりでなく外国人旅行者も含めた観客は、名高い古代彫刻やイタリア・ルネサンス作品から目新しいフランドルのプリミティヴ絵画まで、古今の傑作が一堂に集められているのを見ることができた。ただし、この時期に外国で接収された美術品は、1815年の皇帝ナポレオンの失脚に伴って返還を余儀なくされる。つまり、19世紀初頭にルーヴル宮殿内で見られた「ナポレオン美術館」は、結果的には文字通り「束の間の美術館」だった。とはいえ、残された作品だけでも、ルーヴル美術館が傑出した内容を誇っていたことは確かである。
 これに対して、イギリスでは王室蒐集の公開はなされず、政府も国立美術館の設置に消極的だった。そこで1805年、コレクターと画商が「英国美術振興協会(the British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom)」という組織を設立、定期的なオールド・マスター展の開催に乗り出す。展示される作品はメンバーの蒐集から貸し出された。フランス革命期の混乱により、ヨーロッパ大陸では多くのオールド・マスター作品が所有者のもとを離れ、英仏海峡を挟んで「栄光ある孤立」を維持していたイギリスに流れ込んだため(前述のオルレアン公コレクションはその代表例)、国内の蒐集に蔵されたオールド・マスター作品の数は飛躍的に増加していたのである。当初、この展覧会は美術の専門家のみを対象にしていたが、1815年からは一般に公開された。美術館の立ち遅れのために、イギリスはかえって今日につながるオールド・マスター展の発祥地となったわけである。
 一方、1824年には国立のロンドン・ナショナル・ギャラリーが誕生するが、英国美術振興協会の展覧会も1867年まで存続した。美術館の蒐集がまだ小規模だったということもあるが、なによりも、同協会の展覧会に作品を貸し出すことは、貴族や大実業家を中心とした蒐集家たちの名誉欲を満たすものだったからである。もっとも、オールド・マスター作品にはコピーや贋作も多かったため、貸し出される作品が、持ち主の主張通りのものであるとは限らなかった。
 いずれにしても、オールド・マスター展は制度として社会に定着する。その最大級のものは、1857年にイギリス中西部のマンチェスターで開かれた「連合王国美術至宝展(Art Treasures of the United Kingdom)」だった。鉄とガラスによる特設会場で開かれたこの展覧会は、ルーヴル美術館をもしのぐ内容として国際的な注目を集める。展覧会の企画には、ドイツの美術史家でベルリンの王立美術館初代館長グスタフ・ヴァーゲンが顧問として関わっていた。ヴァーゲンは以前からたびたびイギリスを訪れ、多くの個人蒐集を調べて、1850年代に『英国の美術至宝(Treasures of Art in Great Britain)』全3巻を刊行していたのである。出品作品はこの研究を参照して選定され、作品の展示にも当時ドイツで発達しつつあった美術史学の観点が導入された。長大な会場では、作品は壁面の美的レイアウトという従来の観点からではなく、年代順に配列され、しかもイタリア画派と北方(フランドル、オランダ、フランス、ドイツ)画派が左右に分かれて向かい合い、比較しやすくなっていた。

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