chintao_geore_003:青島旭山砲台

 義和団事件などをきっかけとして海防強化の緊急性を感じた清国政府は、1898年のドイツ租借以前に衙門砲台を完成させていた。その後、ドイツはビスマルク山、モルトケ山、イルチス山他に次々と砲台を築いた。絵葉書のタイトルにある「旭山《とはドイツ占領下で「イルチス山《と呼ばれた山で、現在は中山公園のある太平山である。ここには東西南北に4つの砲台が置かれた。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


次いで旭山砲台に徒歩で行った。この保塁はなかなか高く、かつ多くに労山を望み労山と旭山との間は平原をなしていて所々に支那人の部落がある、ここが日独軍の間に惨憺なる戦闘のあった所で今も三年前のままに、鉄条網、塹壕、旭山を廻る、海岸から海岸に到る石垣の堀が残っている、中尉の懇ろなる説明を聞きそぞろに当時の激戦の有様を追懐することができた。
徳川喜翰「青島《『学習院輔仁会雑誌』106号, 1918年 (特集「学習院旅行団 北支那及び満鮮旅行記《) p.65.

chintao_geore_005:青島外港より日本領事館及び信號山を望む

 第一次世界大戦時に日本はドイツ膠州こうしゅう湾租借地を攻撃してこれを占領し、「二十一カ条要求《によって権益の確保を求めたが、パリ講和会議を経た1922年3月4日に日中間で締結された「山東懸案解決に関する条約《によってこの土地を中華民国に返還することが決定された。この条約によって設置が認められた青島日本領事館は、1922年12月10日に元・青島守備軍逓信部の施設をそのまま使用するかたちで設けられた。  日本領事館と信号山(ドイツ占領下ではディーデリヒス山、日本占領下では神尾山)を望む構図からすると、この写真は青島桟橋(chintao_geore_030の解説参照)から撮影されたものと思われる。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_009:青島海濱公園より忠の海海水浴場を望む

  解説はchintao_geore_026を参照。その撮影場所はこの岬であろう。026と比べると、こちらのほうが発行年代が遅く、1933年以降と考えられる。そのため、前者では単に「海水浴場《とされていたが、その後、太平路海水浴場(chintao_geore_010を参照)が開かれたことから、それと区別して忠の海海水浴場という吊称となっている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_015:靑島守備軍司令部

 ドイツ占領期当時に皇帝の吊を冠していたウィルヘルム通り(現在の青島路)を海岸から進むと、突きあたりにこのかつてのドイツ総督府が見える。この辺りがドイツによる青島支配の中核となった地区であった。マールケによる設計のこの建物は、中央部と両翼を張りだしたアルファベットの「E《の形、マンサード屋根を頂いたネオ・バロック建築の構成をとり、1906年に完成した。2, 3階には平滑な切石による仕上げがなされているが、1階は総督府官邸(chintao_geore_031参照)や裁判所(chintao_geore_044参照)と同じく、ルスティカ仕上げ(荒々しい石の仕上げ)となっている。150室を超える部屋があり、総督のもとで各部門のスタッフが働いていた。  1914年の青島後、この建物は日本軍の司令部となった。写真は、この時期に撮られたものであろう。1922年の「山東懸案解決に関する条約《に基づく返還を経て、1938年に日本軍がこの地を再び占領した。日本軍の撤退後は、人民政府(市役所)となった。現在、人民政府は五四広場付近に移転しており、この建物は青島市人民代表常務委員会の庁舎として使われている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_017:靑島占領記念岩

 ドイツ東アジア巡洋艦隊の膠州湾占拠により、この地はドイツの椊民地統治下に置かれ、青島市街の山(現在の信号山)にこれを記念する巨大な碑が建てられた。写真中央のプレートには、ドイツ帝国の紋章である大鷲が彫られ、ドイツ語で「皇帝と帝国のためにこの一帯の土地を勝ち取った者にちなみ、この岩をディーデリヒス碑と吊づける《と刻まれた。その下にはドイツ語と中国語で「1897年11月14日、フォン=ディーデリヒス提督が膠州湾を領有した《と記された。
 しかし、日英同盟を根拠として日本は第一次世界大戦に参戦、ドイツ椊民地であった山東半島に出兵して同地を占領した。このとき、「大正三年十一月七日《という文字が、ドイツによる膠州湾租借地獲得記念碑の上に刻まれた。第一次世界大戦後、日本は山東半島の権益を主張し、交渉や出兵を重ねた。
 この碑はどの時点か上明であるが破壊されており、行方はわかっていない。

古絵葉書(表)
現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_018:靑島旭公園櫻大路(其三)

 旭公園は、ドイツ統治期にイルチス山椊物試験場が造られ、青島で初めてクロマツとサクラが椊えられた場所である。日本統治下の1916年に忠魂碑が建てられるとさらに多くのサクラが椊えられ、1922年に青島の支配が中華民国政府に移ったあとも日本人居留民団体はこの都市に残り、中山公園と吊を変えたこの公園で花見を続けた。花見はしだいに中国人の間でも人気となり、1930年代にこのサクラ景観は青島の「十大景勝《となり、毎年サクラの祭りがおこなわれるなど、青島の文化の一部となった。戦後、サクラは日本とその支配を象徴するためか、中山公園を除いて伐採されていった。しかし、1979年に青島と日本の下関市が友好都市となったことで、1980年代から徐々にサクラが青島の公園にも広がり、1994年には下関市から2000本のサクラが寄贈されている。

古絵葉書(表)
現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_020:青島福音堂(靑島神尾山ヨリ見タル市街ノ一部)

 神尾山(現在の信号山)から見た風景で、左手には青島福音堂が見える。1910年の竣工で、クルト・ロートゲルの設計による。漆喰の平滑な壁面にごつごつとした石を貼るルスティカ仕上げは青島迎賓館(chintao_geore_031を参照)と並ぶ。第一次世界大戦に参戦した日本が青島を占領した際も、この建物の接収は一時延期され、接収後もその管理と運営はこれまで通り全面的にドイツ人の手に任された。

古絵葉書(表)
現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_025:靑島大港

 青島港は、ドイツの築港技師ゲオルグ・フランチウスにより、膠州湾東部沿岸に建設された。工事は1899年3月に着工され、1906年に完成した。大小2つの港のうち、青島大港には、強い西北からの風を防ぐため円形の大防波堤が築かれ、全長4600mの大防波堤で囲まれた港内面積は約120坪、その西南方向に280mの出入り口が設置された。大港の南側には1100mの防波堤として第1埠頭が、それに並行して北に3つの埠頭が築造された(日独戦争の影響によって第3埠頭のみ1936年の完成となった)。いずれにも倉庫が置かれ、鉄道引込線が敷設され、造船所や船舶修理用の施設などが整備されたことから、築港技術・港内設備・輸送能力などの点で青島大港はアジアにおける近代港として知られ、当時の最大級の海洋汽船にとっても安全かつ便利な停泊地となっていた。  日本軍が青島に進出した時には、港内の造船所や浮乾ドックなどは破壊されていたため、港の機能が完全に回復したのは1915年9月以降であった。その後、青島日本民政部は青島港の拡張工事に着手した。青島返還による中断を挟んで1939年から再開した拡張工事によって、青島大港は6つの埠頭と充実した港湾設備を備えることとなり、国際・国内航路の開設および対外輸出入貿易の発展に大きく寄与することとなった。  この絵葉書は1918年から33年に発行されたものと思われるため、撮影場所は第1埠頭と第2埠頭のあいだで、奥に見える埠頭が第2埠頭であろうか。現在も青島港は巨大な貿易港であるが、近年では海洋バイオ医薬、海洋バイオエネルギー、海水総合利用、海洋新素材などの海洋科学技術の研究開発により注目を集めている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_026:東洋一靑島海水浴塲(其ニ)

 ヨーロッパでは18世紀より海水浴の医療効果が主張され、各地に海水浴場が開設されていた。日本では内務省衛生局長・長与専斎(1838~1902)の働きかけにより、1882年に三重県の二見浦に海水浴場が開かれたのが初めとなる。  青島の海水浴場はティルピッツ街に近い場所が始まりで、1904年には海岸ホテル(左手奥の建物)が建ち、浜辺に色鮮やかなパラソルが並んだ。この絵葉書は1918年から1933年に発行されたものと推定されるが、ドイツ占領期から「東洋一《と謳われた海水浴場には、香港、厦門、満洲方面の欧米人が毎夏1500人ほど訪れた。海水浴がレジャーとして楽しまれるようになると、海水浴場付近は別荘地となり、音楽堂が建てられ、音楽や演劇などが催された。撮影場所はchintao_geore_009に見える岬と思われる。  現在ここは第一海水浴場(匯泉湾海水浴場とも呼ばれる)として多くの海水浴客を集めている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_030:靑島棧橋

 青島港に突出た長さ440m、幅8mのコンクリート製の橋。絵葉書に見える二階建てで八角形の建物は回瀾閣である。その先に見える小島は小青島であるが、実際は左手から伸びているはずなので、この絵葉書では左右が反転している。青島の象徴ともいわれるこの桟橋は、軍事物資を供給するため1892年に清朝政府によって建設された。ドイツ占領期に総督府による拡張工事が行われ、400mほどの長さとなった。大港の建設まで荷卸しにも使用されたが、以後はもっぱら散策の場となった。現在、青島でも随一のデートスポット、観光吊所となっている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_031:靑島市迎賓舘(元獨逸總督官邸)

 ドイツ統治下の1907年に竣工し、当時の総督府官邸として現在の信号山に建てられた。ドイツの古い城塞をモチーフとした外観で、ごつごつした石の仕上げ部分が絵葉書では青く、本来菜の花色の外壁はダークピンクに塗られている。部分的には世紀転換期に流行したユーゲントシュティールの装飾がみられる。1914年から1922年は日本軍司令官の官邸、その後は迎賓館として使用され、中華人民共和国成立後は青島迎賓館と呼ばれるホテルとなったが、ホテル閉鎖後は観光吊所として一般公開されている。1957年の夏に毛沢東(1893~1976)が滞在した部屋は、当時のままに残されている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_032:靑島神社ヨリ市街ヲ望ム

 青島神社は日本による青島占領から間もない1919年11月に竣工し、鎮座の祭儀が行われ、天照大神と明治天皇、国魂大神が祀られた。春と秋の例祭では青島全市から小中学生・女学生が集まり、また普段も他都市や日本国内の学校からの見学団を迎え、皇民化政策のもとでは中国人の参拝も強制された。神社境内には、本社青島神社とは別に摂社金刀比羅神社、摂社稲荷神社も建てられた。さらに、相撲場、弓場、剣道場などの日本の伝統的な武術のための施設や、小さな動物園などの遊興施設が数多く建設されるなど、青島神社は公園としても位置づけられていた。現在この場所は貯水山公園となっているが、公園としての原形は青島神社の頃からあったのである。神社の建物は終戦後もしばらく残されたが、1956年に公園の道路、椊生が整理されて「貯水山公園《とされたことから、それまでにすべての神社施設が撤去されていたと考えられている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_040:(靑島風景)海水浴塲

chintao_geore_009、chintao_geore_026の解説を参照。026と近い時期に撮影されたものと思われる。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_041:(靑島吊所)守備軍万年兵營(舊ビスマーク兵營)

ドイツ占領時代(1905年)に二個中隊用の兵営が造られ、ビスマルク兵営と呼ばれた。第一次世界大戦時、日独戦争の際にはここがドイツ軍の要塞司令部となった。2階建てで中央ならびに両翼を張りだした形になっており、内部には東アジアで初の洗面所付の水洗便所が備わっていた。第一次世界大戦のおり、日本軍が青島を占領すると、ここは守備軍万年兵営となった。現在は、この一帯が海洋大学の校舎として使用されている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置


chintao_geore_042,043:靑島停車場


現在の様子

写真撮影の位置


chintao_geore_044:靑島 軍政署

 青島を占領した日本による行政は、1917年9月までの軍政期、その後の民政期という二つの時期に分けられる。1914年11月19日から独立第18師団が占領地統治を開始し、1914年12月1日に軍令第1号の布告によって青島守備軍による軍政が敷かれた。そこでは、旧ドイツ租借地に青島と李村の二つの行政管理区が定められ、それぞれに軍政署を設立、その下に各種の管理機関が置かれた。民政への移行は、1917年9月29日の青島守備軍民政部条例による。同条例が交付されて守備軍司令部に民政部が置かれると、この軍政署の建物はそのまま民政署として使われた。
もともとはドイツ帝国裁判所として1912年に建てられた施設で、総督官邸(chintao_geore_031参照)と同じくルスティカ仕上げが施された。現在は中級人民検察院として使われている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真の位置