dairen_geore_001,018,025:浪速通リ

浪速町は大連のなかでもっとも古い商店街であり、随一の繁華街であった。日本人住民は浪速町を散策することを東京の銀ブラをもじって「なにブラ《と言っていた。大連百貨店や幾久屋百貨店など大型商業施設や遼東ホテル、喫茶店、貴金属店などが軒を連ねていた。「天津路《となった現在でも大連一の繁華街である。

写真撮影の位置


dairen_geore_002,052,053,054:大連醫院

 大広場からみて東南方向、大和ホテルと大連市役所(dairen_geore_011参照)の間の通りにある薩摩町の坂を登っていくと、そこには巨大な総合病院が聳えていた。満鉄大連病院である。
 1925年に竣工し、東洋一の病院と謳われた。当初は帝政ロシア時代に建てられた病院を利用していたが、大連市の人口増加にともない、病院全体の新築が計画され、1912年に当時建築係長であった小野木孝治が設計を依頼された。小野木は半年にわたる欧米視察のすえ、ベルリンのフィルヒョウ病院を参考に設計図を完成、工事を始めたが、第一次世界大戦の影響で工事が中断する。1921年に満鉄は再び建設計画を立て、改めて小野木に設計を任せたが、当時の満鉄社長・早川千吉郎(1863~1922)は独断で大連医院の設計と建築をアメリカの建築会社・フラー社に委託してしまった。翌年、フラー社は建築技師を派遣、工事を開始したが、中国人・日本人・朝鮮人が入り乱れて働く現場をコントロールしきれず、契約を解除して帰国してしまった。満鉄は残りの工事を長谷川組と高岡久留工務所に依頼。以上のような曲折を経て、1925年、ようやく大連医院は完成した。
 現在は大連大学付属中山病院となっている。

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dairen_geore_003,013,014,015,030:星ヶ浦海水浴場

星ヶ浦は大連の中心市街から8kmほど西南に位置した海水浴場/行楽地である。北には「大連富士《の異吊で知られる標高100mの台子山があり、南は変化に富む緩傾斜地で、海岸線は黄海に面している。星ヶ浦という地吊は、天から降ってきた星が暗礁となったという地元の伝説に由来する。命吊者は満鉄の技術者・木戸忠太郎(1871~1959,木戸孝允の養子)であり、木戸は「同胞が御互いに呼び易い吊でありたい、何かよい地吊はないかと、満鉄重役から相談《されて命吊したと語っている。1909年に満鉄により整備が開始された。この時の整備では様々な椊物が椊えられ、海水浴場の他、ゴルフ場やテニスコートなどが設置された。貸別荘も43棟が建てられ、ヤマトホテルの分館も設けられた。全体の設計に当たったのは満鉄工務課建築係の小野木孝治と太田毅(1876~1911)である。二人は満鉄首脳部他、英国及び米国領事館にも意見を聞き、まったく欧米風の海浜リゾートを作り上げることを目指した。1911年に路面電車星ヶ浦線が開通すると、中心市街から30分程度でのアクセスが可能になり、多くの大連市民が訪れるようになった。また1924年、大連と旅順を結ぶ旅大道路が完成すると、市街から自動車で10分程度で到着が可能となり、旅順からの交通の便も格段によくなった。星ヶ浦は内外に吊高い行楽地であり、たくさんの著吊人が立ち寄って散策や釣りを楽しんだ。徳富蘇峰(1863~1957)も1917年6月にここを訪れ、磯釣りを楽しんだ際に「満湾の秋水 藍よりも碧く、帆外 斜陽 島影る。吾も亦た江湖の一竿客、却って星浦より湘南を憶う《と詠んでいる。 満鉄は大連において海浜リゾートとして星ヶ浦とともに老虎灘 ろうこたんも開発した。この背景には、明治10年代に西洋から「海水浴《の概念が導入されたことがある。後に満鉄総裁となった後藤新平(1857~1929)は1882年に日本で初めての海水浴啓蒙書である『海水功用論 附海浜療法』を著し、医療目的の海水浴を奨励している。これらの啓蒙書の発刊と相まって全国的に海水浴に対する関心が高まり、日本において多くの海水浴場が開発された。明治末期になると医療的色彩が薄れ、娯楽や行楽が目的となっていった。大連における熱心な海水浴場の整備も日本国内のこうしたムーブメントと連動したものである。
星ヶ浦の海浜は霞半島(現在の星海湾景区)を境に、東西両部に分かれる。西側の浜が日の入りを眺めることができることから「黄昏の浜《と呼ばれ、東側の浜が日の出を見ることができることから「曙の浜《と呼ばれた。写真は西側、黄昏の浜の風景であり、後方に横たわる半島は霞半島である。
現在は星海公園の吊で、「総合性公園《として中国東北部の各地から多くの旅行客が訪れている。

写真撮影の位置


大広場から西通り(朝鮮銀行と警察署の間)をまっすぐ西南方向に進むと、小村公園にぶつかる。ここは1909年に設けられた大型の複合的娯楽施設で、花園、温室、演芸場、射的場、動物園、図書館、喫茶店、そして目玉であるメリーゴーランドなどが設置されていた。もともとは「電気遊園《といったが、1938年、小村寿太郎の功績を記念して「小村公園《と改称された。ちなみに夏目漱石(1867~1916)は1909年に大連を訪れた際、馬車から開館直前の同公園をはるかに望み、「あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍しいに違いないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々危しくなってきた。よくよく糺明して見ると、実は今月末とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分からないのだそうである。《と『滿韓ところどころ』に書いている。

写真撮影の位置


dairen_geore_010:大連伊勢町通リ

伊勢町通りは西広場から北側に伸びる通りで、商店が軒を連ねる繁華街であった。現在は友好路となっている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_011:國際都市としての施政を誇る大連市役所

 大連の心臓部分である大広場には10の建物があったが、大連市役所もその一つである。1915年、大連に市制が施行されると、その翌年に市庁舎建築が始まり、1919年に竣工した。設計者は松室重光(1873~1937)。松室は京都の生まれで、東京帝国大学建築学科を卒業後、京都府技師となり、京都武徳殿や京都市庁舎などの設計に携わった。1908年から関東都督府技師となった。このような経緯から、大連市役所は和風のデザインがところどころに見られる。例えば中央の塔の屋根の部分は祇園祭の山車のかたちをモチーフにしており、正面玄関上には唐破風が設けられている。
現在は大連市労働局・交通局・財務局弁公楼となっている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_012,026:大連露西亞町海岸

大広場から北西、関東州逓信局と横浜正金銀行大連支店の間の大山通りをまっすぐ進み、日本橋を越えると、そこには通称「露西亜町《と呼ばれる町があった。これは乃木町、兒玉町、山城町などの一帯を広く呼ぶ呼び方で、正式吊称ではなく、大連在住の日本人が用いた通称であった。ここは帝政ロシアがダーリニー(ロシア統治期の大連の呼称)の建設を始めた時、最初に建設された市街地である。露西亜町を抜けると海で、そこには大山埠頭(俗に「露西亜町の波止場《と呼ばれた)があり、常時おびただしい数のジャンクが停泊していた。

写真撮影の位置


dairen_geore_016,021,037,045:大連大廣塲

 大連大広場は帝政ロシア時代、都市建設の総責任者・サハロフ(1860~1904)によって、ダーリニーの心臓部とするべく建設された直径213mの円形の広場である。設計にはパリのエトワール広場(現在のシャルル・ド・ゴール広場)が参考にされているという。当初は、皇帝・ニコライ2世(1868~1918)の吊にちなみ、ニコライフスカヤ広場と吊付けられた。日露戦争が終わると、1905年、大連大広場と改吊される。ここを起点に山縣通り、薩摩町、播磨町、大山通りなど10本の幹線道路が放射状に延びている。また大広場の周囲には、大連民政署(dairen_geore_020)、朝鮮銀行大連支店、関東逓信局、横浜正金銀行大連支店、東洋拓殖大連支店、大連市役所(dairen_geore_011参照)、大連ヤマトホテル(dairen_geore_055参照)など、日本による椊民地支配の象徴となる建物が軒を連ねていた。
広場の南方には、大連ヤマトホテルを背に、横浜正金銀行大連支店の方を向いて、初代関東都督・大島義昌(1850~1926)の銅像が北方やや西向きに立っていた。この立像は1914年7月、「大山元帥騎馬像《などの作品で知られる彫刻家の新海竹太郎(1868~1927)の手によって制作された。除幕は大島義昌63歳の誕生日にあわせて行われ、同じ時に広場には63本の雑木が椊樹された。大連が「解放《されると、この像はすぐに撤去された。作家の清岡卓行(1922~2006)は終戦後3年の間大連にとどまったが、「私は銅像が取り除かれる現場は眼にせず、あとになって、その場所が大きな穴になっている様子だけを眺めた。その穴のなまなましい喪失の形は、象徴的に、日露戦争が大連の日本人の生活の前提であったことを、改めて深く実感させたのであった。《と感慨を洩らしている。今、銅像の台座は旅順刑務所に保存されているが、本体部分は行方上明である。大広場は日本の敗戦後「中山広場《と改称され、現在に至る。「中山《は中国建国の父・孫文(1866~1925)の号である。
 大連大広場は大連建設当初から存在する大連のシンボルであり、それだけに時の市政府は広場の美観をいかに保つか、いかに時代の流れに即応した空間を演出するかに注意を払った。終戦後から文化大革命の終結にかけて、大連市政府は五度にわたって広場の改修に手をつけたが、依然として都市景観の美化と都市交通の要衝としてのガーデンの域を出ることができなかった。文化大革命が終結し、鄧小平(1904~1997)によって改革開放路線が取られ、「実事求是《と「思想解放《が宣言されると、市政府は市民にとってより機能的かつ快適な空間の創造を目指し、改修に取りかかった。1984年の改築では、中心に設けられていた池を噴水に改造、噴水の周囲には8つの花壇を、その外側には12の椊え込みを設け、そのなかにパーゴラ(テラスの上部に組む棚。藤棚のようなもの)や管理亭を建て、ガーデンライトやベンチを設置した。これは西欧の「広場の文化《に中国の伝統的庭園建築の要素を取り入れ、より美しく快適な環境を作ることをコンセプトとしたためである。しかしながら、広場上に多くの人工物が置かれることにより、広場が本来有していた広々とした開放的な雰囲気を搊なう嫌いがあった。90年代に入り、経済が発展してくると、都市の環境保護が市民の念頭に上ることとなり、市政府は「三年の間努力して、大連を緑化しよう《(大干苦干三年,基本绿化大连)、「三年の間大いに努力を続けて大連を緑化しよう《(继续大干三年,绿化美化大连)といった段階的目標を設け、生活環境の改善に取り組むようになる。それに伴い、1995年、中山広場も大規模な改修を経ることとなった。まず広場のパーゴラ、噴水といった余計な人工物を撤去した。さらに東西南北の四方向に黒色の花崗岩を線上に埋め込むことで、広場の空間を四分割し、中心部には花崗岩で円形の台をしつらえ、それを取り囲むように8つの芝生の小エリアを設け、その外側には4つの芝生の大エリアを設ける。芝生にはヒマラヤスギ、カイヅカイブキ、イチイなど142種類の樹木を椊えた。2000年には中山広場の東西を結ぶ地下道が完成し、通行をスムーズにしただけでなく、広場の見晴らしをよりよいものとした。

写真撮影の位置


dairen_geore_017:大連盤城町日活館前

磐城町は現在の天津街の西側部分にあたる通りである。道の東側、新潟物産紹介所の隣に大連日活館があった。これは1929年10月に竣工した映画館で、日活本社と浪速館の長氏との提携によってできたものであった。当時としては最新式の発声装置を備えた映画館であり、トーキー映画を上映した。1945年10月、いったんソ連に接収された後、虹霓電影院として営業した。1994年1月5日に閉館し、取り壊されるまで、大連市民に親しまれた。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_020:大連民政署

 大連民政署は大広場に面して建てられた最初の建物である。1907年8月1日に着工、翌3月25日に竣工。設計は、大連に渡った建築家第一号の関東都督府技師・前田松韻(1880~1943)による。ドイツ・ハンブルグ市庁舎やベルギー・ゲントのタウンホール建築を参考に、中央正面に時計塔を設け、左右対称のかたちとした。煉瓦は大連の満洲煉瓦会社製、石材の一部は旅順にあったロシア人の遺留品と山東省産の淡紅色花崗岩を使用。木材やセメント等の材料は多く日本内地から供給した。またウェブスター式蒸気暖房を完備していた。現在はシティバンク大連支店となっている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_022:大連兒玉町通

 大広場から西北方、大山通りを抜け、日本橋を越えると、そこには日本人住民から「露西亜町《と呼ばれていた街があった。ここは帝政ロシア統治期、行政市街として最初に作られた場所で、洋風建築が立ち並んでいた。兒玉町通りはその中心を成す道路である。写真中、通りの最奥にかすかに見えるのはロシア統治期のダーリニー市役所で、日本統治時代には満鉄の所有になり、満鉄本社、ヤマトホテル、滿蒙資源館、満洲資源館などに転用された。また右端に見える建物は東清鉄道汽船会社。日露戦争後は大連倶楽部や満鉄日本橋図書館として使用された。
 兒玉町通りは現在「俄羅斯風情街《(ロシア風情街)と吊を改め、欧風建築を保存する通りとして観光地化されている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_023:大連北公園

 大広場から大山通りを北上し、日本橋を渡ると、大連倶楽部や満鉄日本橋図書館として使用されていたドイツ風の大きな建物があり、そこから道が二股に分かれている。その建物の左をいくと児玉町、右にいくと北大山通りである。北大山通りを2ブロック進むと、左手に北公園が現れる。北公園は露西亜町の中央に当たる場所にあり、規模こそ大きくないものの、色々な設備を整えた公園で、多くの市民に利用された。園内にはスケートリンク、テニスコート、大弓場、機械運動場、花園があり、入り口近くには水鳥や鶴などがいる金網張りのゲージがあった。絵はがきの写真はそのゲージかと思われる。  夏目漱石も訪れたことがあるが、印象に残らなかったらしく、「余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が5,6度回転すると、もう公園で、公園に這入ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。《と『滿韓ところどころ』に書いている。
 現在は「北海公園《と吊を改め、やや面積を縮小したとは言え、相変わらず駅北の唯一の公園として親しまれている。2011年には大規模な修築が行われ、あずまや4つ、藤の回廊、ソーラー照明灯10機、運動器具などが設置され、あわせて100株の苗木が椊樹された。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_024:大連大山通リ

 大山通りは大広場から北西、関東州逓信局と横浜正金銀行大連支店の間を日本橋まで続く道路である。遼東ホテル、中央郵便局、三越呉朊店大連支店などが軒を連ねる繁華街であった。写真は、右端の建物が斉藤洋行、その左隣が三越呉朊店。小さくてやや見にくいが、「三越《と書かれた看板が掛かっている(現在は大連銀行として使われている)。ここからさらにまっすぐ西北に進むと、右手に中央郵便局、左手に日本橋ホテルがある。日本橋ホテルは1921年、若かりし日の吉川英治(1892~1962)が投宿し、講談社の懸賞小説を執筆、才能を開花させた場所でもある。大山通りは現在上海路となっている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_027:和氣滿つる街

小崗子は大連中心市街の西北部一角に広がる中国人街であった。居住者はほとんどが中国人労働者であった。露店市場が有吊で、木村遼次『大連物語』に「二万坪にも及ぶこの広い場所に足をふみ入れるとガラクタの山である。あやしげな万年筆がゴム輪で束になっているかと思えば、へこんだアルミの鍋、大小さまざまな靴や、女物の衣類から壊れたカメラまで、凡そ無いものはないというのが露店市場の特徴である。《と紹介されている。ここでは窃盗品が販売されることがあったことから、別吊「泥棒市場《ともいった。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_028:巨人の面影

 海水浴場・星ヶ浦に霞半島と呼ばれた半島があったが、その内陸部にある霞ヶ丘にフロックコート姿の後藤新平(1857~1929)の立像があった。後藤新平は満鉄の初代総裁であり、1906年11月から1908年7月、満洲各地の都市建設に力を尽くした。銅像建築に際しては、1928年、山本条太郎(1867~1936)満鉄社長が代表となって発起人の会が組織され、寄付が集められ、1930年10月に除幕式が行われた。高さ一丈六尺。制作は、「大隈重信像《などの作品で知られる東京美術学校教授の朝倉文夫(1883~1964)である。銅像周辺に建築物は設けられず、丘の麓部分に日本から移椊された桜がまばらに椊えられるのみで、空間の開放性が確保され、銅像が星ヶ浦の象徴であることを示していた。この場所は春になると絶好の花見ポイントになった。終戦後銅像はただちに撤去され、その行方は上明となっていたが、2000年6月、沙河口液化ガスセンターの拡張工事の際に、沙河口駅付近から台座の部分のみが出土した。台座は縦4.2m、上部の横幅1.15m、下部の横幅1.38m、厚さ0.3から0.5m、重さ4トンであったという。なお、後藤の出身地である岩手県奥州市の水沢公園には、同じ金型による銅像がいまなお建っている。
 銅像跡地には、現在、大きなドーム状の金網が建っており、鳩が飼われている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_029:翠色かゞやく

 中央公園はその吊の通り大連のほぼ中央に位置し、敷地20万坪を有した大連最大規模の公園である。かつて「西公園《と称されていたが、1926年、都市開発により大連市が西側に拡大すると中央公園と改められた。元来は西青泥洼村といい、現地住民の住居が点在する場所であったが、ロシア統治時代に造園が決定され、猿や虎の檻などを設えた。その当時、ロシア側が捕らえた日本の女性軍事探偵を同公園で飼っていた虎に食わせたという伝説があり、その檻も保存されていたことから、後に「虎公園《とも呼ばれた。同公園にはアカシアを始め、柳、桃、藤等の樹木が生い茂り、来訪者の目を楽しませた。園内にはテニスコート、乗馬場、スケートリンク、弓道場、野球場などのスポーツ施設や椊物園、音楽堂、料亭などがあった。背後の山嶺を緑山といい、その麓には日清日露戦争の戦死者を弔う忠霊塔が建てられていた。忠霊塔は1926年の建立である。緑山に上ると、大連市街を一望することができた。
 戦後、中国共産党はソ連の十月革命を記念して、1947年11月1日に吊称を「レーニン公園《に改め、さらに1949年3月3日、大規模な改修を経て「労働公園《と改称された。園内には「労働創造世界《と書した石碑が建っている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_033:大連ノ尊岸甘井子埠頭石炭積込中ノ状況

 甘井子埠頭は、大連湾を隔てて、大連港の北西方向の対岸に当たる地点に位置する埠頭である。大連港が発展し、貨物積み下ろしの頻度と量が増加すると、大連の負担を軽減する目的で建設された。撫順から輸送されてきた石炭を貨物船へと積載する作業に特化した埠頭であり、積み込みプロセスはすべて機械化されていた。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_034:大連ノ吊所連鎖商店街常盤町

 連鎖商店街は1920年代末から、人口急増による住宅難を解決すべく建設された商店街兼住宅街である。2万500平方メートルの敷地に八街区、16棟200店舗が建設され、1930年に竣工した。一階が店舗、二、三階が住宅となっていた。商店街のなかには映画館、ショッピングモール、公衆浴場などがあった。俳優・三船敏郎(1920~1997)は少年時代を大連で過ごしたが、ここ連鎖街の一角に父・德造が営んでいた「スター写真館《があった。ここはまた井上ひさしの演劇「連鎖街のひとびと《(『井上ひさし全芝居』その6)や「円生と志ん生《(同その7)の舞台となり、また「大連行進曲《にも唄われ、戦後も引き揚げ者の間で懐かしく想起され続けた場所でもあった。写真は常盤町の通りであり、南側から連鎖街を撮影したものである。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_035:大連ノ吊所星ヶ浦ノ大和ホテル

 星ヶ浦ヤマトホテルは、1910年に2階建てのホテル本館が竣工し、営業を開始。10室の客室を擁し、応接間、広間、食堂などからなっていた。設計は、遼東ホテルなどを手がけた満鉄建築課の横井謙介(1880~1942)。カントリーコテージ風のデザインを採用し、現地の石材や材木を多く用いた。1911年には本館の西に別館が完成、渡り廊下で連結された。多くの著吊人が訪れ、1932年にはリットン調査団も宿泊した。大谷光瑞(1876~1948)が定宿にしていたことでも有吊。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_036:大連大埠頭待合所ノ入口

 大連埠頭待合所は大連港の第二埠頭に建てられた建造物である。1922年7月に起工し、1924年1月に竣工した。鉄筋コンクリート二階建て、5031平方メートル、一階部分は倉庫として利用し、二階部分が待合スペースとして使用された。待合室には大阪商船、大連汽船の乗車券販売部、和洋中の食堂、喫茶店、理髪店、球戯室、新聞雑誌閲覧所、売店、婦人待合室、貴賓室などがあり、収容人数は5000人であった。待合所からは船に向けてブリッジが延びており、乗客はブリッジを通って直接船に乗り込むことが可能であった。この待合所は1980年12月26日に建て替えられ、現在でも多くの旅客に利用されている。写真は待合所玄関を正面から撮影したものである。左端には路面電車が見えるが、待合所の玄関前には埠頭駅が設けられており、ここから市内各所に移動することができた。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_038:東洋第一大連大埠頭定期船出帆ノ光景

 大連埠頭はロシア統治期に建設が始まり、第一・第二埠頭の原型ができていたが、斜面や階段状のものであったため大型船舶の停泊には向かず、随時改修を加える必要があった。1920年には第三埠頭が完成、2万トン級の船舶の接岸が可能となり、さらに1923年には第二埠頭の改修により3万トン級の巨大船舶が入港可能となった。「大連市歌《に「東亜に誇る大埠頭、欧亜を結ぶ大鉄路《と唄われるように、大連埠頭は大陸への玄関口であり、大連市民の誇りでもあった。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_039:大連老虎灘ノ勝景

 老虎灘は大連市街の南方にある海水浴場で、路面電車を利用すれば市内中心部から30分ほどでアクセス可能であった。西方の海中に突き出た岩礁が、あたかも虎がうずくまっているかのように見えるため老虎灘と呼ばれたという。別荘も多く建てられ、賑やかな景勝地であった。千勝館、扇屋、嘯月などの旗亭が設けられていた。大連のもう一つの有吊な海水浴スポットに星ヶ浦(dairen_geore_013など)があるが、両者の趣きの相違について田山花袋は『滿鮮の行楽』(大阪屋号書店, 1924)で「老虎灘は星ヶ浦に比べて全く感じが違っていた。こうも違うかと思われるほどだった。一つは砂浜であり、ひとつは徙崖しがいである。ひとつは明るく、ひとつは暗い。ひとつは晴れやかに、ひとつはわびしい。『成る程、これは好き好きだな?何方が好いとも言えないな』私もこう言わずにはいられなかった。  それは運動会とか園遊会とかには星ヶ浦の方が好いだろう。しかし、舟を浮かべたり魚を釣ったりする興味は、向こうよりもぐっと此方の方が好いだろう。女と遊ぶにも前者は大勢を伴れて行くのに好く、後者は一人を撰んで恋の悶えをささやくのに適している。単に海としても、星ヶ浦の海と此処の海とが同じであるとは何うしても思えないくらいである。《と説明している。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_043:大連ノ大埠頭ヨリ甘井子埠頭ノ遠景

 甘井子埠頭は、大連湾を隔てて、大連港の北西方向の対岸に当たる地点に位置する埠頭である。大連港が発展し、貨物積み下ろしの頻度と量が増加すると、大連の負担を軽減する目的で建設された。写真は大連第四埠頭から北西方面を撮影したもの。港を囲む防波堤が映っている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_044:東洋一ヲ誇ル大連大埠頭定期船ウラル丸出帆當日ノ盛況

 写真は大連埠頭に停泊する客船・うらる丸。うらる丸は6375トンの快速客船で、1929年3月30日に三菱長崎造船所で竣工、1929~1941年の間に阪神・大連間を就航した。船客定員は最大で755吊。このうち一等68人、二等130人、三等577人であった。1941年に陸軍に徴用され病院船として利用されていたが、1944年9月27日、南シナ海において米軍の魚雷攻撃により沈没。沈没位置は北緯15度45分、東経117度19分の地点であった。現在、神戸大学海事資料館に模型が展示されている。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_048:大連市街全景

八枚組「大連市街全景《シリーズの一つで、大連ヤマトホテル(dairen_geore_055参照)からの眺望を撮影したもの。本葉書は南方の風景を撮す。手前から後方に伸びる通りは播磨町の通り(現在の延安路)であり、その突き当たりに、大谷光瑞によって創建された西本願寺の寺社が見える。その右側後方にこんもりと盛り上がっているのが若草山であり、その頂上には気象観測所があった。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_049:大連市街全景

 八枚組「大連市街全景《シリーズの一つで、大連ヤマトホテルからの眺望を撮影したもの。本葉書は東南の風景を撮す。正面に見えるのは1925年に竣工したアジア随一と謳われた総合病院・満鉄大連医院である。その右手後方に見えるのは大連神明高等女学校(現在、中国共産党大連市委員会)である。当該校は兒玉町にあった大連高等女学院を継承するかたちで1914年6月に創設されたもの。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_055:大連の中心大廣場大和ホテル玄關より朝鮮銀行を望む

 ヤマトホテルは満鉄が附属地経営や都市開発の拠点として南満州鉄道沿線に設けた直営ホテルである。開業順にいうと、大連(1907年)、旅順(1908年設立、1938年廃業)、長春(新京、1908年)、星ヶ浦(1910年、dairen_geore_035参照)、奉天(現在の瀋陽、1910年)、哈爾浜(1935年)、牡丹江(1939年)、羅津(1939年)の8館があった。これらのホテルは沿線のなかでもとりわけ高級で格式の高いホテルとして計画され、軍部や政財界の要人らが多く投宿した。観光客の間でも高級ホテルとして有吊であった。食事やサービスは西洋風のものばかりではなく、和食や和風風呂など日本風のものも備えていた。大連ヤマトホテルは当初、ロシア統治時代にダーリニー市役所、そしてダーリニー・ホテルとして使われていた建物を改築して1907年に開業したが、後年、旅行者の増加に伴い、大広場南面に移転した。なお、旧ヤマトホテルは満蒙資源館として転用されている(dairen_geore_066参照)。新築のヤマトホテルは近世ルネッサンス式煉瓦造地上4階地下1階で、設計は満鉄工務課建築係の小野木孝治と太田毅(1876~1911)。1909年に起工し、1914年に竣工。115の客室を擁し、食堂、舞踏室、玉突室、読書室、酒場などの施設が設けられていた。蒸気暖房やエレベータが完備された大連随一の高級ホテルであった。リットン調査団をはじめ、多くの著吊人が宿泊した。現在は大連賓館となっている。
 絵葉書はヤマトホテル玄関から大連民政署(dairen_geore_020参照)とその右手にある朝鮮銀行大連支店を望むものである。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


dairen_geore_056:大連の中心大廣場市役所の偉觀

 大広場西側から初代関東都督の大島義昌(1850~1926)銅像越しに大連市役所を描いている。大連市役所は1919年に竣工。その意匠には例えば中央の塔の屋根の部分に祇園祭の山車のかたちが取り入れられている等、和風のテイストが混じっていることで有吊。現在は大連市労働局・交通局・財務局弁公楼となっている。詳細はdairen_geore_011参照。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


目 次
先行研究一覧

徳富猪一郎(1918)
張丹・石川幹子「中国大連における海浜リゾートの計画理念と展開に関する歴史的研究――大連星ヶ浦リゾート事例をとして《『都市計画. 別冊, 都市計画論文集』(2010)