傅海山、傅連山の兄弟が、漁民や旅人のための宿を開き、そこに、血縁者(傅姓)が集まってできた街であったことから、当初は傅家店という名がついたが、後にこの名前に変わった。
埠頭区と線路を挟んだ縦長の土地は「八区」と呼ばれる。八区を除いた傅家甸の松花江に接した土地は、全て埋立地である。また、傅家甸の東は楊、韓、劉、辛の四姓が定住したことから四家子と呼ばれるようになった。 この地域は、古くから中国人が居住する地域である。しかし、八区、北の埋立地、東の四家子、傅家甸の発展は、地域ごとに異なっていたとされる。
なお、『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』(岩波書店、2003年、p.45)には、以下のようにある。
一番活気のあるのは支那街の伝家甸でしょう。歩いていると、火事のある街に行っているように、人の往来がはげしくて、キタイスカヤの露西亜人の街とくらべて、二、三の識者の話では、これからのハルピンは、伝家甸が中心になって行くでしょうと云う事でした。
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傅家甸は、人口過密な土地であったとのことであるから、林芙美子の言うように、人の往来がはげしかったことは想像に難くない。また、商人の人数も非常に多い街であったことから、街中の看板の数も夥しいものであった。