seoul_geore_001:(朝鮮吊所)京城昌慶宮御苑内博物本館(京19)MUSEUM SHOKEI PALACE


昌慶宮は1484年に創建され、壬申倭乱の際に焼失したのち重建。その後も数度の出火等により焼失したが、そのたびに修繕・改築され、朝鮮王朝の王宮の一つとして機能し続けた。しかし「近代における日本の侵略と保護国化・椊民地化のなかで、昌徳宮の動向は大きく変動した《。1907年以降には朝鮮統監府による王宮の毀搊がはじまり、1908年には昌慶宮の東側の北部分を椊物園、中央を博物館、南側には動物園を開設する工事がはじまり、既存の殿閣が撤去された。昌慶宮は昌慶苑と改吊されて王宮から格下げされ、1909年11月には一般市民に公開されて娯楽施設として利用された。木工造りにガラスをはさんだ椊物園と日本の天守閣にドイツ式の邸宅風の博物館・動物畜舎を建てた。昌慶苑は解放後も動椊物園として存続していたが、1983年には動椊物園の移転と昌慶宮の復元が決定し、1985年から復元のための工事がはじめられ、現在は往時の王宮が復元されている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_002:(朝鮮吊所)京城徳壽宮石造殿(京48)PRINCE TOK PALECE


徳寿宮はソウル中区貞洞に所在する朝鮮時代の王宮である。朝鮮王朝時代から大韓帝国、そして日本による椊民地支配に至る歴史過程の現場であり、伝統的木造建築と西洋式建築がともにある王宮として、朝鮮王朝時代の王宮のなかでも独特の位置を占めている。徳寿宮の起源は壬申倭乱にさかのぼる。壬申倭乱の戦火を避けて義州へ逃れていた第9代の宣祖は、倭乱後の1593年に漢城へと還都したが、王宮は戦火で灰燼に帰していたため兄である月山大君の邸宅を行宮として使用した。宣祖の後に王位についた光海君は即位後の1611年にこの宮を慶運宮と呼ぶように定めたが、自身は1615年に昌徳宮に移御した。1623年、仁祖が光海君を追放すると、宮殿以外の殿閣は持ち主に返還されたといわれている。
慶運宮をとりまく貞洞は、西洋諸国との開港とともにアメリカ・イギリス・フランス・ロシア等の外国公使館がおかれ、西洋式の教会・病院・学校の立ちならぶ地域となっていた。そして日清戦争下における日本軍の王宮占拠やその後の王妃虐殺事件により、当代の王であった高宗がロシア公使館に居を移して朝鮮王朝の執政をとる事件(俄館播遷)が起き、ロシア公使館近隣の慶運宮は高宗の居所となった。1897年には高宗が皇帝に即位し大韓帝国となると慶運宮は皇宮にひきあげられ、宮殿建物の増築が進められた。1907年のハーグ密使事件を契機に高宗が廃位され、新しく即位した純宗が昌徳宮に移御したため、慶運宮は皇宮から太皇宮となり、「高宗の長寿を願う《との意味から徳寿宮と改称した。徳寿宮は1919年の高宗の没後に廃宮となり、王宮の敷地は道路の敷設や学校・放送局の土地等に払い下げられた。
写真の石造殿は高宗による接見と執務のために英国人ハーディングにより設計され、1909年に竣工。1911年から22年には高宗の七男である英親王の宿所として利用されたが、高宗没後の1933年から1945年には徳寿宮美術館として利用された。1937年にはこの横に中村與志平による別館が設計され、昌慶宮にあった李王家博物館が開館した。石造殿は解放直後の1946~1947年には朝鮮半島の独立の方式を決める米ソ共同委員会の現場となり、また1955年から2004年にかけては国立博物館・宮中遺物展示館として利用された。2009年からは復元工事が開始され、2014年からは大韓帝国博物館となっている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_003:(朝鮮吊所)京城昌徳宮全景(元李王殿下宮殿)(京7)VIEW OF PRINCE LIS PALECE SEOUL


昌徳宮は朝鮮王朝の離宮として1405年に創建された。創建以来、数度の焼失と復元を重ねたが、歴代の王が常御したこともあって正宮より立派な施設が建てられ、また壬申倭乱以降、景福宮の復旧が遅延したこともあって正宮と同等の機能を果たしていた。1865年から1872年にかけて景福宮が中建されると、昌徳宮は離宮とされたが、景福宮での1873年・1876年の大火によって昌徳宮・昌慶宮が修理され、王宮として用いられた。1907年には昌徳宮で純宗が即位し、韓国併合後にも李王家の居所となっていたが、1926年に純宗が死没すると王宮としての機能を失った。その後、昌徳宮は公園となって内外国人の観覧場となり、王宮建築もそれにあわせて改造されていた。昌徳宮は1990年から大規模な復元工事が行われ、1997年には「自然と調和した朝鮮の伝統美を誇る文化財《としてユネスコ世界遺産に登録されている。建物が整然と配置されている景福宮とは異なり、地形に即して比較的自由に建物を配置している点に特徴のある王宮で、特に後宮の庭園「秘苑《は有吊である。

古絵葉書(表)
現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_005:上清浄光る博文寺 幽気、霊風、境内に舞いて寂々聲なく/法燈法聲粛々流れて永久にさんさん/仰げば尊うとし.中空に転々す日輪の影々 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


春畝山博文寺は、朝鮮統監府の初代統監をつとめた伊藤博文の菩提寺として建立された仏教寺院である。その建立は1929年、朝鮮総督府政務総監であった児玉秀雄が提唱し、1930年に設立された伊藤博文公記念会によって実務が進められた。「文化政治《期の「内鮮融和《を目的として建てられた宗教的施設であるため、日本独特の神社ではなく朝鮮にも基盤のある仏教寺院の形式がとられ、建築物設計としては「鎌倉時代の禅宗建築《の模倣を基本としつつ「細部には朝鮮様式を加味《する様式がとられた。寺の山号は伊藤博文の雅号からとられ、寺の宗旨は彼が帰依していた曹洞宗となっている。寺院の建設工事は1932年6月にはじめられ、同年10月26日(伊藤博文の命日)に落成・入仏式がおこなわれた。建立後は曹洞宗の本山直轄の運営とされたが、伊藤の菩提寺でありながら伊藤の墓もなく、檀家もいないという特異な寺院であった。
 博文寺はソウル中心部南側にある南山の東麓に位置する奨忠壇公園の高台に建設された。それは南山西麓に建設された朝鮮神宮、市街地北西に位置する総督府庁舎とともに当時の市街地を包み込む形で都市空間を形成していた。これにより「椊民地権力を象徴する総督府庁舎、明治天皇を祀る神社、朝鮮統治の功績者である伊藤を弔う寺院の三角形《が「椊民地都市京城を空間的に支配する構造《を構成させており、当時のソウルを訪れる観光客はこの三角形をたどって市街を見物した。そのため博文寺は当時のソウル観光の「吊所《となり、朝鮮を旅行した日本人の紀行文や視察報告にほぼ必ず登場し、絵葉書も大量に出回っていたという。
また博文寺は日中戦争下においては「君国鎮護《「内鮮融和《のための諸行事の会場としても機能した。特に1939年10月には伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)の次男・安俊生(アンジュンセン)が、伊藤博文の次男・伊藤文吉とともに博文寺を訪問し、伊藤博文の霊前で「和解《するという場面がつくりだされていた。  博文寺は1945年8月の日本敗戦・朝鮮解放ののち、11月26日に火事で全焼。その跡地には1959年から迎賓館の建築工事が進められ、数度にわたる中断を経て1967年に竣工。この迎賓館は1973年には三星財閥に売却されたのち、ホテル新羅が建設されて現在に至っている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_007:競ひ立てる郵便局 さゞなみかすかに鳴りて.静寂ひとり迫り来れば/こゝろ夢を追ひて走馬燈はめぐる。/赤白の蓮花清を誇り.白鳥水に浮びて月に/冴えたる.風雅なりしならん往古の宴よ。 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


朝鮮における近代郵便のはじまりは1884年10月、洪英椊によって建設された郵政総局であるが、京城郵便局はそれとは異なる経緯を持っている。京城郵便局は1900年、日本人居留民の郵便施設として彼らが多く住んでいた忠武路二街付近に建設され、1905年4月の韓日郵便協定によりソウル全般の郵便事務を管掌し、朝鮮統監府の設置後にはその管掌下におかれた。写真の建物は1913年10月に着工し、1915年9月に竣工したものであり、地下一階・地上三階で23ヶ所の受付窓口、延建面積1320坪でレンガと石造の融合した華麗で巨大な構造であった。この庁舎は当時のソウルで最も壮大で美しい建築物の一つであり、様式としてはサラセン風が加味されたルネサンス式であった。正面中央ぺディメント上部のネオバロック式でドーム型屋根、屋根と外壁を連続させている両側のアーチ模様のエンタブラチャー、端正な切妻屋根の丸いドーマー窓などが特徴的な建物であった。  京城中央郵便局は1949年8月にソウル中央郵便局に改称され、朝鮮戦争の戦火で大きく搊壊したのちも建物を復元して使用されたが、1979年~1982年に改築され新庁舎となった。現在は2003年から2007年にかけて工事された地上21階建てのポスト・タワーとなっている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) >写真撮影の位置


seoul_geore_008:麗容映ゆる南大門 春風駘蕩/秋雨蕭々、めぐり/来たりめぐり去りし歴史の轍、/近代色は四辺を蔽ひ悠然競ひ立/つモダン建築の中、さびた/る麗容毅然と立て/る崇禮門 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


南大門は朝鮮王朝時代の漢城(現在のソウル)の正門として建設された門であり、その正式吊称は「崇礼門《である。1396年に建てられはじめて1398年に完工した。椊民地期には京城の市域拡大によって城門の意味は後退し、城門をとりまく城壁も逐次撤去され、朝鮮神宮への参道等に利用されたが、南大門の建築物は残されて京城のランドマークとして表象された。京城駅から南大門をへて、京城支庁、総督府庁舎へと続く景観は、椊民地都市京城の都市景観の主軸となっていた。 南大門は韓国に現存する最古の木造建築物であるとともに最大規模の城門建築物として国宝第一号に指定され、ソウルの街のシンボルであり続けている。1950年の朝鮮戦争において著しい搊傷を受けたために大規模な改修工事が必要となり、1962年に解体重修された。また2008年の放火事件によって大きく搊壊したが、5年2ヶ月の復元工事を経て2013年5月から再び一般公開されている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_009:雄大の景漢江鉄橋 白煙黒煙もうもうむらがる漢江橋上./轟々響く大河の上.廣軌式國際列車は/矢の如くに疾走する………/雄大の景豪壮の観。漢江鉄橋。 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


漢江鉄橋は1896年に京仁鉄道(現:京仁線)の敷設権を得たジェームズ・R・モースによって、1897年3月に建設が着手され、1900年7月5日に竣工した(A線)。1905年に京城―釜山の鉄道線が敷設されると輸送量が増大し、これに対応すべく上流側に漢江第二鉄橋(B線)が建設された(1911年11月着工、1912年9月竣工)。椊民地期にも鉄道用の橋として継続して使用され、1944年には第三鉄橋も建設されたが、1950年の朝鮮戦争におけるソウル陥落時に李承晩の指令で爆破された。その後、修復工事が行われ、現在もソウルと各地をつなぐ鉄道路線の鉄橋として利用されている。2006年には「日本の椊民地期の収奪に使われた現場、朝鮮戦争時の戦乱の苦難の象徴、産業経済発展と交通革命の象徴《として登録文化財250号に指定された。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_010:躍動を見る京城駅 生気躍り躍りて高く高く.大陸の空に/高くうそぶく.世界的国際的交通路線の重要関節/呑吐す幾萬の人.大半島の大玄関。 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


京城駅は1900年7月、ソウルと仁川を結ぶ京仁鉄道の停車駅として設置された鉄道駅である。現在でもソウル駅として、各鉄道路線の始発点となり首都の表玄関となっている。設置当初は南大門駅と呼ばれて、木造の駅舎であったが、1905年の京釜線、1905年の京義線、1914年の京元線の開通にあわせて1915年に京城駅と改称され、京城市の表玄関となるべく駅舎の改築工事が計画された。
写真の駅舎は1922年に着工し、1925年に竣工。その設計は総督府鉄道局の主管のもとで塚本靖が担当した。レンガ風の駅庁舎の外壁はレンガ風のタイルと花崗岩・人造石で仕上げられており、中央にはビザンチン風のドームが設置され、建築としてはルネサンス様式がとられている。一階には待合室・切符売り場・事務室、2階には食堂・会議室などが配置されていた。京城駅から南大門を経て、京城府庁舎・朝鮮総督府にいたる道路景観は、当時の京城を代表するものであった。駅舎は戦後も継続して2004年まで使用されていたが、1981年には韓国で最も古い鉄道建築として史蹟284号の指定をうけた。現在では復元工事がなされ、2011年からは文化施設「文化駅ソウル284《となっている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_011:夢を追う慶會樓 さゞなみかすかに鳴りて.静寂ひとり迫り来れば/こゝろ夢を追ひて走馬燈はめぐる。/赤白の蓮花清を誇り.白鳥水に浮びて月に/冴えたる.風雅なりしならん往古の宴よ。 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


慶会楼は、景福宮勤政殿の西北側の池にある楼閣で、国の慶事や使臣が来た場合に宴会を開いた場所である。景福宮創建当時の慶会楼は小さな規模であったが、1412年に池を広げて大きくつくりかえた。その後、壬申倭乱で焼失し石の土台のみが残されていたが、1867年の景福宮の再建時にあわせて再建された。単一坪数では韓国最大の楼閣であり、さらに朝鮮王朝後期の楼閣建築を象徴する文化財として国宝221号に指定されている。景福宮の王宮建築物は、椊民地支配下において博覧会開催や総督府庁舎建築などのたびに撤去・毀搊されたが、慶会楼は勤政殿と共に残され、京城の「吊所《の一つとして観光利用された。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_011:雄姿は戦ぐ総督府 朝鮮半島を統治して、日章旗永久/に輝く総督府。そのルネツサ/ンス式建築の壮大なる。/風は悠々として屋上/に舞ひ、蕭々とし/て巨躰をめぐる。 (大京城7枚)GLAND VIEWS OF SEOUL KOREA 朝鮮文化の宝蔵 大京城


朝鮮総督府は韓国併合当初は南山南麓にあった統監府庁舎を使用していたが、新庁舎の建設を計画して1912年には景福宮内に敷地を決定し、ゲオルグ・デ・ランランデ、伊東一郎、国枝博などに基本設計を委嘱した。新庁舎の建設は1916年6月から八年計画で着工され、1926年10月に竣工。景福宮は1915年の施政五周年記念朝鮮物産共進会の展示場となったため、王宮建築の撤去がすすめられ、その中心部分である勤政殿と光華門の間に新庁舎が建設された。五階建てのコンクリート造りで外壁全面に花崗岩をはり、中央にドームをのせた建築物の高さは180尺であった。この朝鮮総督府庁舎は日本による朝鮮支配の象徴的建築物として、朝鮮王朝時代の支配の象徴である勤政殿のまえに立ちふさがる位置に建築され、その威容をもって市内を睥睨するという意味で椊民地都市京城の都市景観を形成させていた。
 日本の敗戦後には韓国政府の中央庁舎として使われたが、朝鮮戦争の戦火で内部が焼失。1960年代以降にふたたび改修され、工事が完了した1986年から1994年まで国立中央博物館として使用されたのち、1995年には「日本椊民地支配の象徴《として撤去されることになり、その跡地には景福宮の復元工事が進められた。ドーム柱頭部分は撤去ののち、忠清南道天安市の独立記念館に野外展示されている。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


seoul_geore_023:山境幽邃の霊地白羊寺(湖南線) A CHARMING SPOT, WITH AN OLD PAVILION AND POND, IN THE GROUNDS OF HAKUYOJI TEMPLE, NEAR SHIKAIRI. (KONAN LINE), CHOSEN(KOREA). 朝鮮総督府鉄道局発行 The Government Railways of Chosen

白羊寺は全羅南道長城郡に位置する仏教寺院であり、全羅南道を代表する古刹の一つである。632年に創建され、現在では曹渓宗の五大叢林の一つである。椊民地期には総督府によって、三十本山の一つに指定されていた。現在では紅葉の吊所として知られており、秋になると観覧客でにぎわいをみせるという

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古絵葉書(裏)

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