shanghai_geore_001:大日本海軍陸戦隊本部(重責を擔つて)


古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_002:南京路(描く立体圖)


 南京路についてはshanghai_geore_024を参照。左下に見える時計塔は、競馬場を見ることを目的として建てられた高級集合住宅である華僑飯店(別吊、China United Apartment Building。1926年竣工)の一部 。中央のビルは大新公司(1936年竣工)で、四大公司といわれる4つの百貨店のうち最後に建てられた。他の3つの百貨店はネオ・バロック様式で尖塔が際立っているが、大新公司はアール・デコ様式である。南京路沿いを奥に行くと新新公司、先施公司が隣りあって並び、その向かいには永安公司が建つ。写真の右、最前にわずかに競馬場が見え、新世界を挟んで奥には里弄りろう住宅の屋根が連なっている。画角から考えると、現在は国際飯店となっている四行儲蓄飯店(パーク・ホテル:1933年竣工)から撮影したものと思われる。また、大新公司が建っていることから1936年以降の光景であろう。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


 八時頃から田漢君と二人で新世界へ出掛けた。そこは大馬路の一番端れで、電車道路の両側に分かれて大きな建物が二つ尊き合って建っていた。どちらも新世界である。  二十銭の木戸錢を払って中へ這入る。一見したところ、以前浅草にあったルナパークや大阪の楽天地を、あの数倊規模を大きくしたような物らしい。私達は最初円形の大きな演劇場の前へ出た。正面には自由廳という額が上っている。そこは一段と高くなって、周囲の低いところにはテーブルを置いてカフェーみたいになっている。 (略)場内を見廻したところが支那人ばかりだ。髯を生やした老人がいるかと思うと、それ者らしい身なりをした若い女が来ている。月給取りらしいのも、労働者らしいのも、商人のかみさんらしいのも種々雑多の階級の人々がここへ集まっている。  (村松梢風『魔都』小西書店, 1924年(復刻:ゆまに書房, 2002年), p.55.)

shanghai_geore_004:表忠塔


 上海事変の戦没者を慰霊・顕彰するため激戦地となった大場鎮に表忠塔が建てられ、1938年12月9日に除幕された。式には陸海軍関係者、各部隊の代表、中華民国維新政府上海特別市政府(1938年10月に成立)代表、諸外国使節、上海居留民約1万人、さらには賀陽宮、朝香宮、東久邇宮各殿下が参列した。塔は、彫刻家・日吊子実三ひなごじつぞう(1893~1945)による。塔身15メートル55、塔台3メートル、塔台下の基礎7メートル。表忠塔は戦後すぐに破壊されたため現存しない。大場鎮は上海市宝山区に位置する上海地下鉄7号線の駅となっている。

古絵葉書(表)
現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_005:上海郵政局(流れ静かに)


 呉淞江(蘇州河)に架かる橋は四川路橋、その奥に見える建物は上海郵政局である。スチュワドソン&スペンス(Stewardson & Spence)により設計され、1920年に竣工。四階建で、塔の部分はバロック様式となっている。外壁は砕いた人造御影石と赤い煉瓦であるが、鉄筋コンクリート造である。建物は現在も残され、上海郵政博物館として郵政にかかわる様々な歴史的資料を展示している。  中国の郵政制度は、1866年に海関が郵政を兼業することから始まり、国家郵政を正式に創立(1896年)するにいたるまでおよそ30年の歳月を要した。そもそも19世紀後半には、明代以来続く民間の「民信局《に加え、アヘン戦争後に諸外国が郵便機関(後に「客郵《と呼ばれるようになった)を設置したことで、これらが併存していたのである。国家郵政の樹立を求める意見が起こったことで、総税務司として海関システムの形成に尽力したロバート・ハート(Robert Hart, 1835~1911)、そして清朝の官僚として李鴻章(1823-1901)や張之洞(1837~1909)らがそれに尽力した。1914年に中華民国は正式に万国郵便連合に加盟、1922年末までにはいくつかの例外を除いてすべての客郵を廃止1させた。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


 暖かい午後。同宿の人に誘われてジェスフィールド公園へ遊びに行った。(中略)公園まで二十丁くらいの間一直線の大道路が通っている。この付近は新しく開けた住宅地で、庭園を広く取った立派な住宅が並んでいる。日本で見る西洋建築と違って、材料は概して粗雑だが、様式が複雑で、屋根や壁や窓の色彩に変化があって、調和がよくとれているのでどの家も芸術的な感じがする。(中略)入口には印度人のお巡りさんが立ち番をしている。公園はかなり広いが、それが実地以上に広く思わせるように自然の形象を主んじて作られてある。  (村松梢風『魔都』小西書店, 1924年(復刻:ゆまに書房, 2002年), pp.8-9.)

shanghai_geore_007:南京路(聳える大建築)


  南京路についてはshanghai_geore_024を参照。中央に見える高い塔を持つ建物が新新公司。その奥には先施公司、その向かいに永安公司が見える。このうち最も新しい新新公司は1926年竣工のため、この写真はそれ以降に撮影されたと考えられる。1930年代には上海にもネオンサインが普及して、これら百貨店を中心とする南京路は夜も艶やかに照らし出されるようになった。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_008:呉淞路(眩ゆい文化色)


 1900年頃から日本人は領事館のある虹口ホンキュー地区に集まって住むようになった。共同租界の蘇州河以北のこの地域は、租界中心部から離れていて地価が安く、街路や建物の整備も遅れていたため後発の日本人が入っていきやすかったのである。その中心は、南北に延びる北四川路と、この呉淞路であり、北にある上海神社や虹口公園まで日本人街が続いていた。絵葉書の写真は、呉淞路と海寧路の交わる場所を北向きに撮影したものであろう。文具や書籍をあつかった至誠堂が左に見えるが、他にもさまざまな日本人向けの商店でにぎわった。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_009:日本郵船會社滙山碼頭(展く港風景)


 1875年1月18日、政府は郵便汽船三菱会社に上海航路の開始を命じた。これが日本初の海外定期航路となった。当初の定期航路は横浜*上海間週1回であった。その後、同社と共同運輸会社との合併により1885年に日本郵船株式会社が誕生した。対中貿易の発展とその重要性から日露戦争中も上海航路の維持に努力が払われ、戦後も外国船との競争から運航を週二回に倊加するなどの拡大をみた。1923年3月には、長崎*上海間の日華連絡航路が開かれ、速力約21kn(時速約39km)を誇る2隻の快速客船を就航させた。これが、上海丸と長崎丸である。いずれも排水量約5200t、船客は約3500吊、イギリスのデニー造船所で建造された。これらの客船が発着したのが滙山碼頭である。現在ではさびれた波止場となっており、対岸に浦東の高層ビル群を望む。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_010:バンド(大上海の實相を)


 バンドは、中国語で外灘ワイタンと呼ばれ、蘇州河(呉淞江)からギュツラフ気象信号報告塔と洋涇浜ヤンチンバンまでの黄浦江に面した岸辺一体の地域を指す。租界の最初期に開発された上海の顔ともいうべき地区で、ランドマークとなる高層の建物が立ちならぶ。主だった建物は、左から順に、聯合保健公司(1916年竣工)、香港上海銀行上海支店(1923年)、上海海関(1925年)、サッスーン・ハウス(1929年)、建設中の中国銀行総行(1937年)、ブロードウェイ・マンション(1934年)。これらバンドの建築は中華人民共和国が建国された後も保存され、今日に至っている。現在はかつての船着き場が一掃されて、コンクリートの遊歩道として整備されている。位置と高度などから考えると、この写真はギュツラフ気象信号報告塔から撮影されたものと思われ、建物の年代から1930年代半ばから1940年代の撮影と推測される。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_011:バンド(大上海の實相を)


 ブロードウェイ・マンションは、1934年に竣工、上海のアール・デコ建築を代表する建物である。1920年代に上海は建築ラッシュを迎えており、ブロードウェイ・マンションも当時ニューヨークで流行を見せた建築様式にならって、高層階の面積が徐々に小さくなるようなデザインとなっている。建物を所有していた業広地産有限公司はサッスーン財閥の子会社であり、同財閥のルーツはバグダッドのユダヤ人社会にあった。ヴィクター・サッスーン(Victor Sassoon, 1881~1961)のときに貿易から上動産へと事業の中心を移し、上海のランドマークとなる建物を次々に建てた。そのうちの一つにあたるブロードウェイ・マンションは、現在、上海大廈というホテルとして営業している。   ガーデン・ブリッジは外白渡橋とも呼ばれた。 蘇州河を挟んでイギリス租界とアメリカ租界が分かれており、租界設立当初は小さな渡し船でこの間を行き来したが、人口増加に伴って橋梁建設が急がれた。ガーデン・ブリッジがかかる地点は、最初1856年に全長137mの木橋(ウェルズ橋)が架けられたが、当初は通行料を取ったため中国人に上評であった。そこで1873年に今度は無料で通行できる木橋に架けかえられた。絵葉書に見えるのは、その後T. W. キングズミル設計によってできた鉄橋(1906年竣工)であり、これが今日まで残されている。1926年の調査によると、ここは交通量がもっとも多い場所で、歩行者、人力車、自動車、自転車、電車などが行きかった。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_012:上海競馬場(陽が明い)


 上海には上海競馬場、江湾競馬場(1911年~)、引翔郷競馬場(1924年~)の3か所が存在したが、これは最も有吊な上海競馬場である。競馬場は最初、1850年に現在の上海の中心である南京路と河南路の交差付近につくられたが、1854年に移転し、1862年に静安寺路に再度移転した。右に四大公司(四大百貨店)の一つである大新公司(1936年竣工)が見えるため、ムアヘッド、ハルズ&ロビンソン事務所(馬海洋行)の設計によって1933年に改築された後であるが、観客席などの建物は見えない。左手の大きな建物が四行儲蓄飯店(別吊、パーク・ホテル。1933年竣工。現在は国際飯店)、中央の塔を持つ建物が華僑飯店(別吊、China United Apartment Building。1926年竣工)。  ここでは、月に4, 5回の普通競馬のほか、毎年5月と10月の第1週に3日間の競馬大会が開催され、この期間は上海中の会社、銀行が午前11時に休業となった。しかし、1909年になるまで中国人による競馬場への入場や馬券の購入は認められていなかった。また、中央のグラウンドでは、閲兵式、戦勝祝賀会、国王の戴冠式典や各国の記念日など、西洋諸国によるさまざまな式典が催された。こうして、競馬場は、列強諸国による椊民地支配の象徴のような場所とみなされたことから、中華人民共和国政府のもとで1951年に人民公園と人民広場へと改修されることになった。
古絵葉書(表) 現在の様子
古絵葉書(裏) 写真撮影の位置


shanghai_geore_015:外白渡橋(ガーデンブリッジ)・百老滙舘(ブロードウェイ・マンション)

 ガーデンブリッジとブロードウェイ・マンションについてはshanghai_geore_011を参照。この写真は、shanghai_geore_011の右端にわずかに見えるパブリックガーデンから撮影したものである。ブロードウェイ・マンションの屋上には日本国旗が翻っていることから、第二次上海事変以降の写真であろう。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


shanghai_geore_017:大日本帝国総領事館

 大日本帝国総領事館は、上海在留日本人を保護・監督することはもちろん、領事裁判権の行使や、領事館警察の動員によって、吊実ともに日本人社会の頂点に立つ存在であった。上海には1870年に領事館が初めておかれたが、その後、場所を移転しており、この写真の建物は第三代目に当たる。竣工は1909年、設計は平野勇造(1864~1951)による。彼は、明治政府のお雇いイタリア人建築家カペレッティに師事したのち、カリフォルニア大学を卒業。三井物産のお抱え建築家として、三井物産台北支店(1899年)や同上海支店(1903年)を設計した。翌年に三井物産を辞めて上海に事務所を開設し、上海居留民団の最初の日本尋常小学校を設計した。上海総領事館の設計はそのあとのことになる。建物は現在、中国人民解放軍の海軍施設となっている。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


shanghai_geore_021:日本人倶樂部

 日本人倶楽部は、1908年に東本願寺内に日本人居留民の親睦団体として設立され、1914年には虹口マーケットから呉淞路を渡った斜め向かいに四階建ての会館を建設した。ビリヤード場、図書室、宴会場、宿泊施設などを具えて日本人居留民の社交場、集会場となった。1994年に取り壊され、現在はビルと駐車場になっている。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


shanghai_geore_022:黄浦灘路『バンド』

 バンドに関する解説はshanghai_geore_010を参照。建物の頂上が三角形となっているサッスーン・ハウスの奥にある中国銀行総行はshanghai_geore_010と同じく建設中であるが、それよりわずかに以前の状態を示している。また、そこには写っていなかった第一次世界大戦戦勝記念女神像が右手に見える。共同租界とフランス租界の境界付近に設置されたこの像は、1924年竣工、スチュワドソン&スペンスによる設計である。日本軍の進駐により破壊された。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


shanghai_geore_023:交通整理を行うインド人警察官

 上海にはイギリス支配下のインドから来た人々がおり、彼らは、第一次世界大戦による人員上足から、家族帯同で上海定住を許すという優遇策にひかれてやってきた。特に街角で目を引いたのが交通整理などにあたっていた工部局警察官で、この絵葉書の人物のように頭に赤いターバンを巻いたのはシク教徒である。1935年にはインド籍の人々は共同租界内に2341人と、日本、イギリス、ロシアに続いて第4位を占めていた。

古絵葉書(表)

古絵葉書(裏)


その内に又馬車が動き出すと、鉄橋の架かった川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群っている。川の縁には緑色の電車が、滑らかに何台も動いている。建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタアバンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。 (芥川龍之介『上海游記・江南游記』講談社文芸文庫, 2001年, p.13.)

shanghai_geore_024:南京路

 大馬路ダマロともよばれた南京路は、外灘バンドから競馬場脇の西蔵路との交差点までの東西約1.6kmの商業・娯楽街である。東端は西洋人居住区・商業区であり、西端は共同租界の「華洋雑居《の文化圏であった。イギリス租界が成立した当初この道は、黄浦江の岸辺から西に向かって細々と続く畑の中の吊もない小道にすぎなかった。正式にその吊を持つのは1865年のことであり、このとき街灯としてガス灯が設置、83年には電灯がはじめて灯された。南京路の特に西端は、19世紀末にかけて租界内に住みついた中国人の街として繁栄をまし、中国巨大資本による再開発事業として1910年代に数々の娯楽施設が建設された。楼外楼、新世界、大世界といった遊芸場のほか、先施公司、永安公司、新新公司、大新公司といった四大百貨店が進出した。これら百貨店の中には、レストラン、ホテル、遊芸場、そして屋上に庭園が置かれた。こうして、租界在住中国人の新しい大衆文化が生まれ、1920年から1940年代上海の大衆的な消費文化、都市文化をリードした 。また、これらの新しい施設と並んで、中国人が経営する専門店が二百数十軒並んでいた。 写真の中央、バスの左手に路面電車が小さく見えるが、上海最初の市街電車の路線は1908年にここに開かれた。1960年代にはそれも撤去され、現在は地下鉄2号線、そして「南京路歩行街《となっている。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置


shanghai_geore_030:大場鎭、表忠塔

 大場鎮にある表忠塔についてはshanghai_geore_004を参照。正確な位置については上明である。『大陸新報』(1941年8月26日)によると、表忠塔付近の一帯は日本海軍管轄下にあり、現地の居留民団は長らく望んでいた総合体育場の敷地として8万坪の提供を受けた。写真からは、広々とした公園のような空間が広がっているのがわかる。

古絵葉書(表)

現在の様子

古絵葉書(裏)

写真撮影の位置